懐かしく思うべくもない。そう思い佇んだ岬の端で、しかしラダマンティスの足は止まり一歩も動かなくなった。
 彼は曇天を見上げた。低く低く垂れ込める無彩色の雲の原が、胸の底をざわめかす得体の知れぬ震動からわずかなりとも彼の意識を逸らしてくれた。ありもしない郷愁を呼び起こす海は、この雲さえなければその天の色を写す鏡だというのに。常闇に永く身を浸した彼は海と天と、どちらが鏡でどちらがどちらの色を写し出すのかふと気になり、ふと考え、そして分からなくなった。
 海鳴りはいつの間にラダマンティスの全身を逃げ場もないほど包んでいた。遠く水平線から押し寄せ重なり、増幅するその音は足下で砕ける波と共に彼の身を海底に引き摺り込もうとするかのようだった。瞼を開き見下ろした海面は深く淀んでおり、足下の遥か下方には白く泡立つ波がうねり、時に岩だなの上を遊ぶように滑り、時々恐ろしく上まで跳ね上がる。
 これが奴の長年見てきた景色だという。唯一の景色だという。
 ラダマンティスは目を細めた。何も奴に思いを巡らせたではなかった。視界の端に圧力を感じた。それは光だった。雲を破って梯子が一条、海面に到達する。彼は目を細める。奥歯を噛み締める。淀んでいると思われたその海が、ほんの一条、わずかな光を得ただけで深い青へと色を変えていた。灰色に淀んだ只中にたった一つ見開かれた瞳のように、それは青く輝いていた。ラダマンティスはわずかに踵を引き体重を移動させた。懐から取り出した煙草に火を点けるのは難儀だったが、やがて苦い笑みが紫煙とともに広がった。そのどちらも激しく冷たい海風に晒されたが、なお熱い。
 青い海に惹起 されたのはあり得ぬ郷愁ではなかった。ただあの長い髪を梳るこの指先がその色を覚えているような気がした。この指の間を抜けて枕に落ちる髪。やがてその髪の隙間から瞳が見える。愛憎を溶かし込んでしかし濁りを見せない瞳が。塩を、罪人の罪を溶かし込んでなお青い海に、ラダマンティスは奴の瞳の理由を知った。
 煙草を一本、吸いきるまで彼はその場に留まっていた。本当は、この岬に、海に背を向ければ瞳の持ち主に会いに行けたはずだ。待たせた時間だけカノンは機嫌を損ねるだろう。しかしラダマンティスはその場を動かなかった。煙草を一本吸いきる間、海面の懐かしく思うべくもない瞳が押し寄せる鈍重な雲に押し流され梯子を失い再び無彩色に潰えるのをじっと眺めた。指は今にも煙草を握り潰しそうな欲動に耐えていた。この後、会えば自分は指の間を通る髪を鷲掴みにするだろうと、そう、確信した。




2016.4.21