ルネが攫う話




 月の光が野を青く染め、茫漠たる景色の中に独り佇んでいた。ルネは一人だった。かつても一人だったし、寄る辺なきが自分の人生だとも思っていた。しかしこの夏の夜に涼しい風だけの吹き渡る青い野に佇むと、真の意味での孤独が理解できた。明かりは遠く、手の届かない場所にあった。自分を照らし出す月も星も皆、光は投げかけるもののそれは野の草一本を照らし出すのと同じ、視線のない光だった。草のようにルネは照らされ、髪は宵風に草のように揺れ乾いた囁きがルネの耳元を掠めた。ルネは独りだった。
 手を見下ろすと、仰向けの掌だけが青い空気の中で白く光った。身体は草陰の闇に溶けるような黒だった。ルネは喪服を着ていた。野の果ての明かり、遠い煙には人の息遣いがある。ならば生きている人間は他にたくさんいるはずで……、おそらく死んだのはルネだった。自分を弔うための喪服をルネは着ている。
 ――否、そうではない。
 ルネは自分の死をこれっぽっちも悲しんではいなかった。自分が死んだと知った今でもそうだった。思い返すものは何もなく、悔いも感傷も思い出さえ胸の中から探し出すことはできなかった。ではルネにとって死こそ常態であり、この喪服は誰かの死のためだ。そう思う…、ルネは確信する。
 青い野を踏み出すと、草はかすかに音を立てた。宵の涼風はルネだった。いずれ寒くなる。あっという間に冬が来る。ルネはいずれ酷寒の風となる。月光に照らされたこの美しい野も全て枯らせてしまうかもしれない。それは当たり前のことのように思われる。少しずつ自分が何者なのか解り始める。
 しかし今、夏の最後の穏やかな夜はたいそう静かで美しくて、ルネは独り歩きながら薄い使命感の底から更に薄く自分を包み込むものを感じる。満足というほど満たされきってはいない。充足と呼ぶほどに詰め込まれた訳ではない。薄い薄い、もの音一つ、くしゃみ一つで破れてしまいそうなもの。ルネにとって最も好ましいものだ。
 ――静寂。私は静寂が好きだ。
 死んでしまったルネには草の匂いも生命の息づく大地の匂いも届かなかった。髪が鳴るように、時折涼しい微風が耳元を掠めるだけ。そのかすかな音が一層際立たせ、その存在を確かにする静寂。ルネの魂の奥からその好もしさはゆらゆらと湧き上がる。どこかで見た景色だ。どこかで自分の身をひたした場所だ。冷たい廊下。紙を捲る音しかしない机の上。生を振り返る小さな呟き。誰かの靴音。懐かしい靴音。髪が揺れる。あの建物の中で風は吹かない。指がルネの長い髪を持ち上げる。ルネの耳元で囁く。
 ルネは思わず振り返った。地平線の果てまでも青い野は広がっていた。幽かな月光の照らす茫漠として終わりのない景色の中、ルネは独りだった。しかしかつてのルネは確かに誰かといた。
 そしてこの先の未来もきっと…!
 ルネの中で円環が閉じ、彼は全てを知る。
「ミーノス様を…お迎えしなくては……」
 酷寒の激しい風が吹いて、耳を聾するほどのそれがルネから静寂さえ奪い取る。何も聞こえない完璧な無音の中でルネは目を見開き、月光が砕け、青い野が溶け落ちるのを見る。世界の果ての生きた明かりがぐらりと揺れ、星も月も遠い空の果てに飲み込まれる。
 再びルネが静寂を取り戻したのは石だらけの川辺だった。耳元にはさざ波の立てるかすかな波音が届いた。それを打ち破るような櫂の音。
「お目覚めかい」
 振り返ると舟の上でカロンがニヤニヤと笑っていた。それもまた懐かしい顔ではあったが、ルネは顔を綻ばせることなく、一瞥を投げたのみだった。
「しばし待ちなさい。今からミーノス様をお連れします」
「エッラそうに」
「静かに。あの方の息が聞こえない」
「ここはお前さんの持ち場じゃねえんだ。命令は聞かないぜ」
 しかしルネが手の中の鞭を一振りすると、この軽薄な渡し守も口を噤む。
 ――見つけた。
 ルネは目を細め暗く底のない天空に耳を澄ます。ミーノスの息が細くなるところだった。もう幾何もないだろう。すぐに迎えに行かなければならない。更に鞭を一振りすればルネの身体は仰々しく禍々しくさえある冥衣に包まれ、次の一打ちで川べりから飛び去っている。
 人の世は夏も終わりである。冷たい風が吹き始めた。月は彼方に沈み野が暗闇に沈む。塗りつぶした闇の下で街明かりが一つ消えたところだった。酷寒の風が吹き、死臭さえ攫った。
 その年は、雪の降るのが早かったそうだ。




2013.1.27