昔の話、或いは次の話




 凪の川面をぼんやりと眺めていた。波は大きく緩やかで、河が流れるが故のそれだった。オールが縁にぶつかると、音は高く果ての見えない黒い空に響いた。木霊はなかった。どこまでも高く吸い込まれ、聞こえなくなった。雪が降っているかもしれない、と思う。どこがとは特に考えていない。カロンはアケローン河の渡し守であり、それが名と存在の全てだ。
 冥界において…現世の記憶のない者は多いという。カロンは少数派だが、しかし既にそれは保持しているとは言い難い旧い記憶だった。記憶とさえ呼べるか定かではなかった。古ぼけた絵画のような、色あせた写真のような景色が浮かぶだけだ。それもこの眼で見たというよりも、本当に絵か写真を見たかのように隔てられている。
 雪が降っているかもしれないと思ったカロンの頭の中で、旧い景色は雪をかぶった。ため息橋、サン・マルコ広場、大聖堂の屋根。故郷のある者は幸福だと言う。門をくぐり渡し守となって永劫にも似た繰り返しを続けるカロンにもその幸福はあるのだろうか。雪をかぶった景色に郷愁は感じないが、そんな景色を思い描くことさえできぬ者たちばかりなのだ、この冥界は。ならば人の持たざる者を持つ自分は幸福であるだろう。
 門の向こうは寒いだろうと思い、凍えながらやって来るだろう、と思った。冬の静寂。ひたひたと満たす水面の音。馴染みだ、遠い遠い昔から。生きていた頃から。カロンは旧い歌を口ずさむ。人待ちのゴンドリエーレの歌。憂鬱なメロディ、怠惰な鼻歌。
「カロン」
 背後から呼ばれ、立ち上がると船は少しだけ揺れた。波が立った。
「これはこれは」
 カロンは大仰に頭を下げる。目の前に立つ男はグリフォンだ。冥衣も纏っていない。現世の面影を残す装いは、まだここに辿り着いたばかりだと分かる。ほんの数時間、数分前だろう。両腕にはぐったりと死んだような身体を抱えていて、それがバルロンに違いない。グリフォンが抱いているならば、それは彼の副官であろうから。
 目の前のこの男は、門をくぐった瞬間グリフォンとして地を踏み河を渡るこの男は、死にたてのこの男は、覚えているのだろうか。生きている間、自分が何者であったか。腕に抱いているのはバルロンという副官の他、どんな名前を持ち、自分にとって何者であったのか。自分たちが死んだのは昼か、夜か。
 雪は降っていたのだろうか。
 だがカロンには関わりのないことだ。大仰に頭を下げたまま、恭しく手を差し出す。相手が誰であれこのアケローン河を渡すのにタダ乗りはさせられない。
 俯いたカロンがにやにやと笑うのを察してか、掌でクローネ銀貨がガチャガチャと音を立てた。
 船の上、グリフォンはバルロンを膝の上に寝かせじっと黙っている。ああ、忘れているな、とカロンは思った。グリフォンが見つめるのはバルロンの寝顔でも、背後、たった今後にしてきた門の向こうでもなかった。ぼんやりとかすむ川岸、故郷を失った者どもの最後に辿り着く地。唯一の地。そこにたった一人だけ連れてゆくのだ。現世の記憶も思い出も全てを代償にするかわりに得たバルロン。今回のバルロンも…美人だと思う。それが本当に自分の記憶なのか定かではなかったが。まあ、グリフォンの好みなぞそうそう変わるものではないということだ。
 凪の川面に冷たい風が吹いた。真っ黒の空を経て遠くコキュートスから運ばれてきた氷の匂い。雪をかぶった遠い景色。アクア・アルタ。流されてゆく長靴。ため息橋の下をゆっくりと通り過ぎる。
 カロンは低く歌った。ゴンドリエーレの愛の歌。恋人たちに捧ぐ歌。グリフォンは気にかけもしない。眠るバルロンの耳には届かない。カロンは雪を思う。この二人が死んだ夜、外はきっと雪だったろう。雪をかぶった窓。優しい笑みのグリフォンと美しいバルロン。
 懐でクローネ銀貨がチャラチャラと鳴る。愛の歌にその身を震わせて。対岸が見えてきた。




2012.12.28 書き終えてからカロンの出身地はナポリだと思い出したので、多分このカロンはあのカロンじゃないんじゃないかなと思いますがイタリア国内引っ越したっていいじゃない…。