転生二景




旅景



 冷たい吐息に目が覚めた。かすかな音が天井から降り注いでいた。雨の降る音に似ていたが、じわじわと蘇る現実の中でそれは希薄になり、幻なのだな、とルネは思った。自分の誕生日も近い、この季節に雨が降るなどあり得ない。遠い夏の幻に縋るように耳の奥にだけ降る雨音を辿る。視線を滑らせると仄白く浮かび上がる時計の針が午前四時を示していた。
 進学と同時に故郷を出てより、幸か不幸か何事もなく勉学に勤しむ間に里帰りのチャンスを逃していた。同室の男はオスロで生まれて以来街を出たことがないと言っていて、時々ルネの話を聞きたがった。特別な場所ではありません、とルネは話す。半月型の湾があって、その突端近くに家があった。海の深い色。冷たい波の音。冬になれば雪に閉ざされ、影がまるで青く見える。真っ白な画布に濃い青のインクを滲ませたような景色。何も特別な街ではありません、グリムスタッドは…。
「行ってみたいですね」
 同室の男は言った。
「私の初めての旅行は、そこにしたい」
 本当は夏に招待したかった、とルネは心の中で繰り返した。冷たく深い海の色も美しく輝く夏に。しかし窓の外には雪が降っていた。あれが太陽の光に溶かされれば雨になるの。冷たい雨に。私はこの男のために自分の傘を差し出す。男は半分の場所をルネにくれるだろう。
 しかし思い出そうとすると、男との景色はどれも冷たく寒く、太陽の光の射さないものばかりだった。静かな吐息さえ白く染まり、ゆっくりと行き場なく漂っては消える。勢いもない。押し流す風も。ほんの軽い雪片さえ、揺らぐことなく降り積もる。
 白い腕が伸びてきて視線を遮る。白い時計の針が、ぼやけた窓の外の雪が消え、ルネは瞼を伏せる。男の吐息はもう間近にある。首筋を撫でる手は、体温のないかのような冷たさ。
「ここはどこでしょう」
 目を閉じたままルネは尋ねる。
「私の故郷でしょうか。それとも…」
「私たちの初めての旅行ですよ、ルネ」
 とても寒くて冷たい場所。永遠に太陽の光の射すことのない場所。悲しくはなかった。画布はいまや濃い青で一面塗りつぶされていた。それは懐かしい冬の影、瞼の闇。男の手はルネの瞼を覆い、優しいキスが降る。
「気に入れば、このまま住み着いてしまえばいい」
「お心のままに、ミーノス様」
 覆いかぶさる男の体重がしっかりと自分を押し潰して、その確かさにルネの中のかすかな迷いや不安は消えた。自分はこの人のいる場所にいよう。この人の側にいよう。耳の奥に降る雨音はいよいよ希薄になり、夏の記憶は遠いものとなりつつあった。それは雪景色よりも脆い幻だった。もうすぐ故郷の名前も忘れるだろう。だがやはり悲しくはない。
 窓の外でつららの落ちる音がする。悲しくはないが肌寒かった。ルネは両腕に男の身体を抱いた。




アンチ・ディジャヴュ



 冬寂で待っているとミーノスは言った。ウィンター・ミュートとは何だろうと思いながらルネは雪の季節にはまだまだ遠い夏の終わりの小径を、海岸に向かってだらだらと下っていた。この都市は私たちの眠っている間に火に焼かれて燃え尽きたのだ。新しい街はなんだか白く背が高く、どこもかしこも光っていた。壁の内側に秘められた寒天質の光が闇夜を照らす月光のように街角を満たす。光だけならば涼しげな、カレンダーを忘れてしまえば冬の夜空さえ思い出させる色をしていて、歩きながら不慣れな街にルネはくらくらする。ここは彼と暮らした街なのに。
 海岸から吹き上げる風が長い髪をなぶり、首筋に浮いた汗が蒸発しながらひやりと撫でる。潮の香りはするが海はまだ見えない。燃え残りの旧市街に設置されたポストにも窓は用意されていたから、ルネは覚えたばかりの使い方を試す。掌を押し当てるとそれまで寒天質に淡かった光が意志を持ったもののように輝き活発な活動を始める。ルネの個人情報を瞬時に読み取り、指先が描く質問に文字と音声で答える。次の四つ角を真っ直ぐ。次の四つ角も真っ直ぐ。
 ウィンター・ミュートとは? オスロ中心に同名のバーが一軒、コミュニティの名前として一件、同名の曲を三つものロックバンドが歌っている、他には?
 窓は沈黙する。ルネは対価を林檎で支払い、窓の指示した通りに歩き出す。最初の四つ角は真っ直ぐ、次の四つ角も真っ直ぐ。壁は平面なのにそこに貼られたスクリーンのせいで、壁の向こうにもまだまだ広い通りが広がっているような擬似的三次元のホログラムがルネの視覚を惑わせた。次の四つ角も真っ直ぐだ。ホログラムの男は左に折れる。違う、そっちじゃない。そっちはきっと行き止まりなのだ。
 おかしいですね、とホログラムの男は言う。
「ルネは私の言うことよりも窓の言葉を信じるのですか」
「林檎を対価にした情報ですから」
「楽園の知恵の実を楽園にあなたも楽園を追われたという訳です」
「ミーノス様?」
 ホログラムの男は消え、代わりに似ても似つかぬ男が二体に分かれ、両側からそっくりな顔で迫る。新作のスーツは如何? 黄金仕様と海仕様、フォーマルにもカジュアルにも最適!
 深海パーティーに出掛けようという立体看板が人魚の姿をしてルネの鼻先を掠め壁に飛び込んだ。ルネは思わず立ち止まって眉間に皺を寄せる。もううんざりだこんな世界は。早く■■に帰りたい。
 ――どこへ?
「早く冬寂へ帰りたい」
 声に出して呟くと、途端に壁の両側が真っ黒に沈んだ。電源が落ちたのだろうか。旧市街の停電だろうか。振り返ったがポストも窓の寒天質の光も見えなかった。
 波音が静かに這い寄る。ルネは爪先の向いた方向へ真っ直ぐ歩き出す。四つ角は真っ直ぐ。とにかく、真っ直ぐ進めばよい。
 不意に手を掴まれた。その手をルネはよく知っていた。一歩離れて頭を下げた。
「ミーノス様」
「ようやく辿り着きましたね、ルネ」
「ここは…?」
「冬寂、ウィンター・ミュート。ハーデス様の慈悲の沈黙です」
 マトリクスの壁がバラバラに砕けて、暗闇の中、月光を砕いたかのように昇ってゆく。そうだ、ここはアケローン河の向こう、彼方の世界。血と涙が河を作り凍りつく世界。目の前に巨大な門が立ち上がる。そこをくぐれば暑さも寒さもない、いつもぬるい風の吹く三途の川が横たわっている。
 時代錯誤な手こぎの渡し船には既にカロンが待っていて、二人の姿を見てケッと嫌そうな顔をした。
「お二人様ご案内」
 そして手を差し出す。
「まず渡し賃だ。林檎なんか寄越すんじゃねえぜ、俺は金しか信じねえ。林檎より金、紙切れより音のする金だ」
 ミーノスがクローネ硬貨を取り出し弾く。ウィンター・ミュートに銀貨の音は高く響いた。三人は期せずマトリクスのノイズを纏う銀色の軌跡を見つめ、沈黙した。




2012.12.17