熱変形




 暑い。気分が悪い。ここは空気が悪い。巨蟹宮に一歩足を踏み入れた瞬間、鼻腔から肺腑の奥まで濁った空気が満たすのを感じて、あれ私は蟹との付き合いは長いはずだしここだって初めてじゃないのに、と一瞬怯んだのが運の尽きで死に顔の呻き声がうわんと鼓膜を満たしたらもう駄目だった。あれ、あれあれ、私ここに何しに来たんだっけ、曲がりなりにも黄金なのに他の宮に踏み込んだだけでこれってどういうこと、と思いながら身体はもう双魚宮に帰りたくてしょうがない。階段の薔薇に頭から埋もれるんだ。馬鹿、死ぬっつの。
 入口でふらっときた私にデスマスクが気づいて、お前何してんの、とのうのうと言うもんだから一瞬ムカついた私は薔薇を心臓目がけて放ちそうになり、いやいやそれはヤバイでしょ、と内心ツッコミつつ、馬ッ鹿きみに会いに来たらここ空気悪いから気持ち悪くなったんだろ、と文句言ってやろうかと思ったけどその瞬間自分が蟹を殺すところがやたらリアルに想像できて本当に蟹を殺した気分になって泣きそうになって吐きそうになって、しかしここは聖域で蟹んとこだとしても他の連中や、特にサガが私のことに気づかないはずがないので取り敢えず蟹ぶん殴って全部リセットしようかな、と覚悟を決めたら。
「おい」
 腕を掴んだデスマスクの仕草がいつかどこかで触れたような、街角ですれ違った見返りを求めない優しさっていうか、些細な親切というか、すっかり記憶から消え去った(もともとなかったのかもしれない)父親の面影…父性の記憶?みたいなものを喚起して、うっかり首にすがりついて唇の端にキスをする。
「あ」
 デスマスクがこれはマズイという顔をして巨蟹宮の陰の中に引っ張り込むから、おいおい今のは事故チューみたいなものなんだから本気にしないでくれ、とうんざり、
「馬鹿」
 したのは早とちりだったらしく、デスマスクはキスの続きとかしない。
「お前、こんなとこで」
「ああ、ごめん」
「じゃねーだろ。どした、顔色悪いぞ」
 早く気づけ。
「何でもない。っていうか、ここほんと空気悪い…」
「掃除はしてんのよ」
 本当だ、埃一つ、塵一つない。なのにどんよりしている。死に顔は私達を見ている。うざい。
「で、何しに来たんだよ」
「酒…」
 気付けにと思って口に出した一言が正解で、本来の目的だった。
「今日、暑い…。飲まないとやってられない…」
「カミュにちょっかいだしてフリージングコフィンされる」
「きみ、死んでこいよ」
 って冗談言いながら笑える程度には回復してきて、あ、やっぱここは巨蟹宮で蟹がいなきゃ駄目なんだなって、もっと言えばデスマスクはシュラと合わせて私と三人、一つの平面を成すための三点で私の心を支える三本の柱なんだな。その上に載ってるのがサガ。
 こういうのあったよなあ、テーブルターニング。私達は知らない間に私達の意志ともサガの意志とも、更にそれを操る神秘的な力ともつかない何かに導かれるまま狂ってゆく。大体神の化身とか呼ばれたような男の子の心に悪が芽生えて心が二つに分かれるとか宇宙の法が狂ってるとしか思えない。聖域の暑さも太陽の容赦のなさも、巨蟹宮の空気の悪さも、デスマスクにキスしたことも全部全部狂っている。私達はずっと三人一緒だったけど、こんなことしたことはなかったんだ。
 唇を舐めるとデスマスクの乾いた皮膚や唇の匂いが蘇る。死臭と腐ってゆく血の匂い。刹那の間に私が想像したこいつの死んでゆく時流す血の匂いだ。
「グラッパがいい」
 歩きながら呟くと頭を撫でられて、やっぱりそれは優しい。粗野で純朴な優しさだ。前者はともかく後者はこの男に似合わないのは分かってる。けど、例えばこいつの料理は美味いし舌が肥えてて――デスマスクは自分でも作るけど、その分よく食べる、大食という意味じゃない、こいつは命を食べることをよく知っている――揃えている酒のセンスは良くって、多分聖闘士にならなければいいとっつぁん――非お父さん――になったんじゃないかな、と一年に一回くらい思うことを考えた。
 この男の残忍さはどこから生まれたんだろう。生来のものだと言うのだろうか、魂や遺伝子に刻まれた性質なのだろうか。もしも聖闘士じゃなかったら…。奥さんを殴ることはあるかもしれないけど、それはそれで古いタイプのいい男になってそう、と勝手な想像をその掌から繰り広げる。
 細長いステムに蕾が今にも開くような形に開いたボウル、そこへ注がれたほとんど透明の微かに色づいた液体は多分蟹のとっておきで、彼は当然のように給仕をしてくれる。
「きみは本当に」
 私はお上手か本心か分からないままに言う。
「イイ男だね」
「そんなの生まれた時からだっピ」
 前言撤回しよう。

 聖域は毎日毎日今年の最高気温を更新し続けて本当に世の中狂ってるとしか思えない。
 グラッパで酔っ払った日から私は巨蟹宮には寄りつかず双魚宮の階段で薔薇の手入ればかりしている。折角咲いたのに咲いた端から枯れていきそうな暑さだ。水、水。
 アテネの反対側では雷雨が降っているらしいそんな音や風の匂いはするけど、癒やしの雨は聖域まで届かないまま乾いて消えてしまう。ここは世界の正義の拠り所のはずなのに、中心に坐すはずなのに、何だろうこの見捨てられた感。
「狂ってる」
 独り言が漏れたことに私はしばらく気づかない。思考の断片がぽろっとこぼれただけで、出力先が心か唇なのか、目の前の薔薇に集中していたので気にもしなかったのだ。だから、
「何がだ」
 とシュラの声が聞こえて顔を上げると厳しい顔をした本人が薔薇の向こうに立っていて、知ってたけどあんまり薔薇が似合わない男だな、と余計なお世話なことを思う。いや、シュラはイイ男だから鍛錬用のああいう簡素な服じゃなくて身なりを整えて花束でも持たせたらきっと様になる。まあ、一番似合うのは私だろうけど。
「何が、狂ってるって、アフロディーテ」
「何も。そうでなければ全部」
 ナッシング・オア・オール。かっこつけすぎたかな、と思ったらシュラは神妙な顔をして、そうだな…、とか呟いて、あーまた暗くなってるな、と思う。いつものパターンだ。十年くらい繰り返しているいつものパターン。
 日よけに被っていたつばの広い帽子をシュラの頭に被せてやって、水飲む?と当たり障りのないことを尋ねながら自分より少し高い位置にある顎を見上げると首筋を流れる玉のような汗に、あ、と先日巨蟹宮で感じたディジャブを思い出す。あの時は、もしも聖闘士にならなかったらデスマスクは今頃…と違う人生を想像したけれども、シュラに感じたのは聖闘士にならなくても別の人生でも私はこの男が分かるだろうな、ということだった。
 デスマスクは例えばその名前からして聖闘士にならなきゃつかなかったはずで、なら他の人生では本当の名前のままで、イタリアのどっか田舎――トスカーナとか好きそう――でお嫁さんもらって子どもが何人かいて――二人のような気がする――それなりに幸せな家庭でカッとなりやすいのが玉に瑕なデスマスクは時々奥さんとか子どもとか殴っちゃうかもしれないけど、すごく人生って呼べそうな人生を過ごしてそう。多分お葬式で親戚全員が集まって、みんなで送り出してくれる感じ。お墓は奥さんと隣同士。
 だけどシュラはよく分からない…きっとアイオロスを殺した時に彼の人生はこの世の全ての可能性から断絶されたんだ、カプリコーンのシュラ以外になれない。それでも無理して考えた先にいるシュラはスペインにいてもアテネにいても世界中のどこにいてもその厳しい相貌のまま、罪から逃れることができない。シュラのあらゆる運命の、アイオロス殺しが結束点になっている。扇の要。始点にして終点。永遠の結び目。
 だから私はどの運命にいてもシュラを見つけ出すだろう。そしてきっとデスマスクも。私達は出会う。三人で一つの平面を成し、何で満たされているのか分からない器を支える。同じ場所に戻ってくる。
 という訳で同じ場所に戻ってきた私は双魚宮にシュラを案内して日陰で水を飲む。近頃のことで話すのはサガのことと――これはまあいつものこと――、薔薇のこと、蟹のこと――巨蟹宮で戻しそうになった部分は割愛。グラッパはまた飲みに行こう――、それからとにかく狂ってるみたいに暑いってこと。
「頭がおかしくなりそうだ」
 うんざりしながら言うと、被せたはずの帽子が頭の上に返される。横目に見るとシュラもこっちを見ていた。
 分かってるよ、そして分かってるんだろう、シュラ。頭がおかしいのなんて、もうとっくの昔からだ。
「シュラ、暇?」
 シュラは肩を竦めるだけだ。
「ゆっくりしていくといいよ」
 で、全てを暑さのせいにしながら私は初めてシュラと寝る。想像したこともなかった。デスマスクを殺すこと、シュラを殺すこと、そしてサガを殺すこと、悩みの迷宮の中で私は色んな想像をし尽くしたと思ったけど、これは想像したことがなかった。こんなに近くにいる人間と寝る想像をしたことがない。それが普通なのかな。誰とでも寝る寝ないの想像をする方がおかしいんだろうか。ベッドの上で俯せになったシュラの隆々とした背中を見下ろしながら、余計に壊れたりしないかな、と私は心配する。
 しかしそれは杞憂で、意外なことにシュラはこの一夜を引き摺らない。そっか、アイオロスのこと以外シュラは引き摺るものなんかないんだ。
 夜が明ける前に双魚宮を去る背中を見送り、ゆるく吹いてくる風に今日も暑くなる予兆を感じる。今日も絶対最高気温を更新する。太陽は薔薇を枯らすし、サガは黒髪のまま笑っていたかと思うと沐浴しながら泣いている。暑い。今日も聖域は暑い。
 本当に世の中狂ってる。でも世の中全部狂ってるなら今更一つの正解だって存在しないんじゃなかろうか。ナッシング・オア・オールじゃない、全てだ。オール、オール、オール。空っぽの心の形さえ歪んでいる。多分聖域が暑いのが全ての原因だ。




2012.9.22 サカモト様のリクエストです。いえ、むしろ私がサカモトさんのアフロ本好きすぎて…。