しづ心なく、雨の降るらむ




 夜陰に雨音もひっそりと。庭の松も苔むした岩も、生きとし生けるもの悉く息を潜めて冷たい雨にじっと打たれているかのようである。街の喧騒、夜独特の賑わいもここには届かず、鼻をくすぐる冬の雨、冷たく濡れた緑の匂いをかげば、ここが冬木の街中とも思われぬほどだ。
 屋根の下に住む二人の親子はこの雨の匂いと夜陰の穏やかさに包まれて、並んで座っている。目の前には煌びやかに光るテレビ画面。二人の手にはそれぞれゲームのコントローラー。賑やかな音楽に乗せて画面の中のキャラクターを操作する。
 雁夜はキャラクターがジャンプをするたびにビクリと肩を震わせた。コントローラーを握る手も思わず跳ねる。父の臓硯はそれを横目に見ながら笑いを堪え、悠々とステージの先を進むのだった。
 レベルを変えて挑戦した息子がハードモードの父に何回目かの敗北を喫する。
「あのサバイバルを生き延びたおぬしも、父には勝てぬか」
「持て余した暇を全部ゲームに注ぎ込んでいる人が相手じゃあね…」
 雁夜は諦め悪く再戦を選択したが、もう一人のプレイヤーがコンティニューする音が聞こえない。臓硯は座布団の上に頭を載せ、ごろりと横になっていた。
 不意に雨音が耳に蘇る。ゲームの音楽はまだ続いているのに、それさえ包み込むような静寂の音。
「…お父さん」
「ワシはもう疲れた」
「こんな所で寝るなよ。布団敷いてやるから」
「休憩じゃ。一休みしたら部屋に戻るわい」
 布団は雁夜に敷かせるつもりらしい。いつものことなので構わなかった。
 ゲームの電源を落とすと、今までの煌びやかさとは打って変わって、テレビからは辛気くさいアナウンスが流れる。もう真夜中のニュースが始まっている。随分遊んだものだ。夕食は早いし、風呂上がりから始めたから、もう二、三時間はゆうと流れたか。
 ふと寒気がした。部屋には暖房器具などなく、熱は二人の間に置かれた火鉢のみだ。雁夜は掌を擦り合わせると、息を吐きかけた。
 彼の手はもう随分冷たくなっていた。指先まで熱が行き届かない。コントローラーのボタンを押すのも覚束ない。
 また身体がぶるりと震えた。今度のは寒気だけではなく尿意だと分かった。雁夜は横になった父の肩に自分が尻を敷いていた座布団を載せると、そっと座敷を出た。
 雪隠は濡れ縁の端から庭に出た飛び石の先に、ぽつんとそれ一つ建っている。今更人生に急くことなどないと思って不便も受け入れた雁夜だが、このような雨の夜は寒いし、少し煩わしいなと思いつつ傘を差した。
 濡れ縁の下の冷たい草履を履き、飛び石を踏む。
 暗い庭からは、雨が玉砂利に吸い込まれる音がささ、さ、ささ、と幾重にも重なって静けさのように雁夜の耳に届いた。
 特に雨夜となればその暗さに、ここが街中であることを忘れてしまう。用を足しに向かうだけの、このような時間さえ自分には贅沢であり尊いと雁夜は思った。間桐の家で暮らし、間桐を厭うて屋敷を出、最後は間桐の魔術師として結果的に父の望むままに生きた雁夜だ。信じる神も、今更縋る仏もなかったが、聖杯戦争が終わってこちら、憑き物が落ちたように穏やかな心持ちである。
 ――死ぬ前の気分というのは、
 雪隠の軒下で傘を閉じ、とん、とん、と叩いて雨粒を落とす。
 ――存外に悪くない。
 裸電球の橙色の光が仄暗く屋根の下の狭い空間を照らす。雁夜は和式便器の上に腰を下とし、溜息をついた。上部に開いた格子窓からはひゅうひゅうと微かな風の音がした。雨が松を叩く音。風が走り去ってゆく。また静かになる。
 体内の機能を主に蟲に任せている雁夜には、用を足すことも容易ではない。下腹部でぐねぐねとそれの蠢く気配がする。瞼を伏せて、腹の中の動きを探る。また溜息が漏れる。
 ふ、と。
 静けさの中に異質な音が響いた。コツリ、と硬い音。濡れた飛び石を踏む音。
 コツリ。コツ、コツ。
 下駄の足音、それに杖の音。
 雁夜は瞼を開き、壁の向こうを睨みつける。
「…入ってます」
 低く摺るような笑い声が聞こえた。
 雨の中、臓硯が笑っている。
「ほれ、早く用を足さぬか、雁夜」
「俺は手間がかかることくらい知ってるだろう。向こうで待ってろよ」
「違う違う、そうではないわ。雁夜、ワシはお前が用を足す音を聞きに来たのでな」
 一瞬、この妖怪爺は何を言っているのかと。何か別の言語を喋っているのかとさえ思ったが、何度反芻しても父は自分の小水の音を聞きたいと言ったようにしか思えない。
 嫌悪感さえ通り越し呆れていると、ほれ早う、と雨の中から父が急かす。
「緊張しておるのか。ワシのことは気にするでない」
「…いや、気にならない方がおかしいだろ」
「仕方ないのう」
 臓硯は呟く。
 また、コツリ、コツリと足音が響く。
 足音が止み、雁夜は唾を飲み込んだ。
 急に、無遠慮に戸が開いた。
「ワシの手を煩わせるとは、いつまで経っても手のかかる息子よ…」
「しっ、しっ…!」
「父に向かって何じゃ、犬でも追っ払うように」
「閉めろ!」
 しかし闇夜を背に立つ臓硯はにやにや笑って、雁夜の言葉を聞く気など頭からない。
 雁夜が震えていると濡れた杖の先が伸びてきて、露わになった下腹部に触れた。
「ほれ」
 杖の先がぐいと押しつけられる。
「あっ…」
「手伝うてやるぞ。ほれ、ほれ」
「やめ……!」
 しかし押された刺激に、意志の制御する力の弱まっていた雁夜の身体は反応してしまう。
 音を立てて尿がまき散らされた。それは便器に落ちず、床を汚した。雁夜は下半身を丸出しにしたまま床にしゃがみ込み、ああ、と顔を覆った。
 ぷんと匂いが立ち上る。羞恥か情けなさか雁夜は泣き出しそうになったが、涙は出て来なかった。
「いつまでそうしておる」
 臓硯が見下ろす。
「行くぞ」
「勝手に行けよ。気は済んだだろう…」
「雁夜」
「汚れた…床……拭いて……」
 すると懐かしいざわめきが足下から這い上がる。闇から湧き出た蟲が雁夜のこぼしたいばりを舐めて吸い取っている。
 コツン、コツ、コツ、と足音が遠ざかる。
 雁夜は立ち上がると自分の内股に這い上がろうとする蟲をもぎり捨て、雪隠から出た。電気を消すと、闇の気配はいっそう濃くなった。蟲蔵を思い出させるざわめきが雪隠に満ちる。雁夜は傘を開くことなく、引きずりながら庭を横切った。
 濡れ縁に臓硯が待っている。
 雁夜は臓硯の後について彼の寝床に向かった。そして自ら服を脱いだ。
「醜い身体だのう」
 嬉しそうに臓硯は言う。枯れた枝のような指が、生気を失った肌をなぞる。
「不老不死になって回春までしたのか?」
 雁夜は臓硯の着物の裾を割り、魔羅に手を添える。それは醜いというより、蟲そっくりのグロテスクさで、いっそ雁夜には慣れた造形とも思えた。雁夜はそれに舌を這わせた。
 蟲の凌辱を受けた一年。それは臓硯の凌辱を受けたと言っても同意であるし同義である。蟲は父の存在からなるものなれば。
 雁夜とて最初から父と肉体の関係を結ぶことを覚悟していた訳ではなかった。しかしこの夜の雨の下、それはもう仕方なく思われるのだった。枕を共にし、情を交わす。それら言葉には自分達の関係は遠いものに思われたが。
 雁夜はそれを舐めすすり、口の中に含んでまで仕えたのだが、蟲そっくりの男根はなかなか勃起せず、しまいには顎が疲れ果ててしまう。臓硯はそれを見下ろして低く笑っている。
「…使い物にならないらしいな」
 雁夜が臓硯を見上げてニヤリと笑うと、
「ワシを愚弄するでないぞ」
 不穏な、しかし楽しげな声音と共にそそり立った魔羅が雁夜の頬を叩いた。
「………」
「己が肉体を操ることなど自在よ。貴様がワシに取り縋って必死にしゃぶる姿、これで最後じゃろうからのう、とっくり拝ませてもらったわ」
 魔羅でぴたぴたと頬を張られ、雁夜は口元からだらしなく涎を垂らしたまま臓硯を見上げる笑みを消した。
 褥に横になった雁夜の脚を、臓硯は大きく押し広げる。
「ところで雁夜、これがお前の最初の閨であろう」
「…お察しのとおり童貞だが、生憎あんたの蟲のせいで綺麗な身体じゃないんでね」
「生涯父の身体しか知らぬとは一途な奴よ。愉快愉快」
 蟲に犯され抜いた身体は臓硯の魔羅も躊躇いなく、根元まで飲み込む。
 苦しみも痛みも、不思議と感じなかった。重い下腹部には、ただ確かな魔羅の質量、そしてそれのもっている熱がじわりじわりと広がった。
 ――セックスって、こういうものだったのか。
 雁夜は下腹部に手をやり、身体の奥の熱と質量を感じ取るようにゆっくりと押した。
 すると臓硯の手が雁夜を自身の、女を知ることのなかった性器に触れさせる。
「やり方を知らぬか?」
「…今更勃つとは思えないだけさ」
 そう答えながら雁夜は自分の陰茎を擦る。冷たい指。冷たい自分の陰茎。だが身体の中には熱がある。臓硯の魔羅が、ぐずぐずに溶けた体内で命を生むまがいの行為を続けている。
 雁夜は臓硯の動きに合わせて自分のものを扱いた。さっきは小便をまき散らした、だらしのない自分の分身。臆病であった自分に相応しいそれを、罪悪感も背徳感もなく、ただこうして一心に撫でることなど、これまでなかった。
 掌に触れる感触が変わり、雁夜は驚く。カカッ、と臓硯が短く笑った。
「重畳重畳。男としてまだ死んでおらぬようじゃ」
 暗い屋根の下、湿った水の音が響く。
 雨音の静けさとは違う、生を持ったものの生きた水音だった。ぬるく湿り、肌をつたい、粘膜をとろかせ、熱を孕んだ水音だった。
 雁夜は自分の中に渦巻く熱に集中した。やがて射精した時、実際に身体から排出されたそれに命を宿すだけの力があるや否やは疑わしいものだったが、深い満足を感じた。臓硯の放ったそれは、雁夜の体内にぬるりと溶け、蠢く蟲に吸われて身体に満ちた。

 ささ、さ、ささ、と。
 雨が玉砂利に吸い込まれる。無音の音が屋敷を包む。
 雁夜は枕の上で頭を動かした。雨にぼんやり光る障子の前に、臓硯のシルエットが見えた。座り込み、じっと雨音に耳をすましているようだった。
「…お父さん」
「寝ておれ」
 臓硯、と胸の中で呟いた。
 いつもの戯れか。久しぶりに俺に嫌がらせをしたかったのかい。それとも死にゆく俺への情けだとでも言うのだろうか。あんたの言うとおり、房事の一つも知らなかった俺への。それなら女をあてがってくれればよかったものを…。
「醜い…」
 小さく、臓硯が囁いた。
「醜い身体じゃのう…」
 それは雁夜のことを言っているのか、臓硯自身のことを言っているのか。
 マキリ・ゾォルケンなら俺を抱くに足ると、あんたはそう思ったのだろうか。
「おそろいだよ」
 雁夜は呟いた。
「俺達には、お似合いだ」
 低く声を殺して臓硯が笑った。
 雁夜は瞼を閉じた。下腹部に手をやると、皮膚の下でぐるりと蟲が蠢いた。




2012.4.3