しづ心、花を待つらむ




 朝の清しい光が和風の庭に満ちる。雨戸を開け放ち畳の上に射る光もまた心地良く、早朝の凍てつく空気がふわりとほどけ、その中に真新しい畳や生活の匂いが混じるのを雁夜はかいだ。背後のテレビは今日の冬木市は小春日和になるだろうと伝える。
「聞こえた、お父さん」
 雁夜は縁側に腰掛けた小柄な背中に声をかけた。
「布団を干そうか。ふかふかの布団なんて何百年も触ってないだろ?」
「ああ…?」
「布団」
 振り返ったのは矮躯の老人。
 間桐の始祖、間桐のマキリ。
 ゾォルケンを名乗る最後の男。
 間桐臓硯。
 死なない身体を手に入れた、雁夜の父。
 これまでも吸血鬼吸血鬼と罵って来たが、今や臓硯は名実共に不老不死となったのだ。
 第四次聖杯戦争の因果の糸が縺れ、それに抗った者、足掻いた者、断ち切った者、全てが死んだ。聖杯は唯一生き残った雁夜の手の中に転げ落ち、彼はそれを正当に用いたのだった。
 聖杯は間桐臓硯に。それが最初からの約束。そもそも間桐の末裔として自分が産まれたのも、この目的の為に他ならない。
 目的の完遂、即ち間桐の終わり。
 深山町にホーンテッドマンションよろしくそびえ建つ間桐邸に、今はもう人影もない。桜は凛と共に聖堂教会の言峰に引き取られ、侍女、家政婦の類いにも暇を出した。I野は古い屋敷を取り壊し自分と息子に住みよい邸宅へ建て直すつもりらしい。魔術回路を持たず、魔術師としての心得もない彼らには間桐の保有してきた霊地もその程度か。
 何故、臓硯が蛮行と表現するにもはばかりないそのような行為を黙認したのか。
 今二人の住む日本家屋は、余命一月もない雁夜のために臓硯が用意したものだった。
 街中にありながら霊力を擁する土地。そこに古くから建つ歴史を込めた家。
 穏やかな日々の中で、雁夜は最後の命をゆっくりと使っている。まるで普通の人間のように、否、一般人以上の穏やかさで死への日々を歩んでいる。
 父はその傍らに、言葉数少なく並んでいるのだった。
 しわがれた声がゆっくりと繰り返す。
「布団、な…」
「朝のうちから干してしまうよ。昼過ぎに取り込めばきっと暖かだろう」
「だろうのう…」
 臓硯は一つ二つ頷いて、再び庭に目を遣った。
 真っ黒な異形の眼球。世界の終わりまで見届けるのであろう白い眸。その上に映るのは石庭の清浄な砂利と苔むした岩。
 雁夜は錆鼠色の背中をしばらく眺めていたが、奥へ戻った。
「お父さん、朝食を摂ったら布団を干すからね」
「おお」
「二度寝しないでくれよ」
「おお…」
 味噌汁の味は薄めに。
 いくら不老不死とは言え、無理のできる身体ではない。老人なのだから。
 薄味の食事に雁夜も慣れた。とは言え、重湯がようやく口から入る程度だが。
 お父さん、と呼ぶと臓硯は縁側から座敷に上がる。飯の匂いがするからだろう、満足げにうんうんと頷いている。
 朝というのにテレビの声は騒がしい。小春日和、それさえ分かればいい。雁夜はテレビを消した。静かな中、二人は朝の食事を摂った。

 聖杯はそれを手にしたものの願いを叶える、そう教えられてきた。
 しかし聖杯戦争参加者の少年は、こう表現した。
「たった一人の祈りを叶える…」
 では父のそれも「祈り」だったのか。
 不老不死を願った間桐臓硯は、マキリ・ゾォルケンの魂を取り戻した。死なない身体によって、それを願った最初の心を取り戻した。
 しかしその肉体は老人のまま。
 他人の血肉を食らい、蟲の力によって命を繋いできた醜悪な姿のままだ。
 それは形に過ぎない。実際の臓硯はもう何に傷つけられようとも、どれだけの時が経とうとも、その肉体を失うことはない。彼の魂も肉体も不滅だ。
 死ぬことはない。
 これ以上老いることも、ない。
 そうだ、聖杯の聞き届けた祈りは「若返り」ではなかったのだから。

 不老不死はマキリ・ゾォルケンの、間桐臓硯の祈りだった。
 彼は自分の胸に正義の炎が宿っていたことも思い出したが、その火は老いた身には既に遠い。遠すぎる。
 彼は自分の為すべきことを考え、苦悩し、煩悶し、眠りに落ちることさえ出来ぬ夜を繰り返し、ある朝、考えることを止めた。
 為す「べき」にも、為し「たい」にも、大した差を見出すことは、最早なかった。
 彼には永久という時間が与えられた。
 好きなことは何でも、やるべきことは何でも、躊躇わずやるがいい、心置きなく遣るがいい。死の恐怖から解放されたのだ。彼はこの世で一番自由な存在である。
 自分以外の存在が次々と死んでゆくであろう、この世界で。
 最初に死ぬのがおそらく、雁夜だ。

 雁夜が宣言通り布団を干すと、父がまた縁側に腰掛けているのが見えた。二度寝をするなという言いつけを守ったらしい。
「雁夜」
「なんだい、父さん」
「今ぁなんどきや…」
「時蕎麦みたいな科白だな。もう九時だよ」
「まだ九時か…」
「もうお腹が空いたのか。昼はまだだ」
「腹の話はしておらん」
 錆鼠色の羽織が、小春日和と言う暖かな日の下でぽつんと小さな影を縁に落としていた。もう太陽を厭うこともない。蟲は蔵の中でさわさわと静かな眠りについている。
 魔力さえ感じられない父は、本当にただの老人のようだった。
「雁夜…」
 おざなりの返事を返そうとすると、臓硯が自分の隣を掌で叩いた。
 乾いた小さな音。
「来い」
「…どうしたの」
「来んか」
 雁夜は父の隣に並んで座り、裸足の足を小春日和の下に投げ出した。
「膝を貸せ」
「嫌だ。気持ち悪いな」
「父の言うことがきけぬか」
「親孝行ならもう最大級のをしただろう」
「確かにのう」
 ふと、雁夜の腹が震えた。
「よくやった、雁夜」
 褒められたのはいつ以来だろうか。幼き日、自分はこの枯れた手に頭を撫でられたことがあったろうか。甘やかされたことがあったろうか。偉いと、よくやったと、自分の存在を認められたことがあったろうか。
「…それが取引の条件だった」
「そうじゃ。お前は約束を守った。ワシに聖杯をもたらした。ワシの宿願を」
 ぽつり、ぽつりと臓硯は言葉を口にする。
「…もう少し嬉しそうな顔をしたらどうなんだ?」
 雁夜は顔を上げた。
「あんたはもう何も怖がることはない。日の下で桜の花見もできる、一度行ってみたかった温泉にだって行けるじゃないか。永遠の命を楽しんだらどうだよ」
「永遠の命、か」
「息子が命懸けでとってきたんだ。お父さんが笑ってくれたら、俺も報われるってものさ」
「お前の心を報いたのは桜じゃろうて」
「ああ…」
 世界を変えるような出来事も、まるで夢の中の出来事であったかのように二人の口からこぼれた。遠坂時臣、葵の死。蟲蔵から助け出した桜との別れ。つい先日のことなのに、すっかり色褪せている。
 今は目の前の景色だけが鮮やかだ。常緑の松。岩の黒さ。喧噪は遠く、のどかな日の射す邸内には、もう数ヶ月後であれば桜も咲き、鳥も鳴いただろう。しかしその頃、雁夜はこの世にはいない。
「雁夜、膝を貸さんか」
「嫌だね」
 しかし臓硯は身体を傾けると、勝手に雁夜の膝に頭を載せた。
「…寝心地の悪いこと」
「勝手に寝ておいて、その言い分は酷いんじゃないか」
「もっと太らせればよかったのう」
 臓硯がそう言うと、嫌な言葉にしか聞こえないが、しかし声からはどす黒さや剣といったものがすっかり失せていた。優しさ、ではない。角が取れて丸くなったと言うよりも、中身が虚ろになってしまったかのようだ。
 死なぬ、ということはそういうことなのかもしれない。
 老いた形をした、この肉体は永遠だ。空は色。色は空。永久を詰め込んだ肉体とは、そういうもので満たされているのかもしれない。
「お前はもうすぐ死ぬんじゃのう…」
「…そうだよ」
「ワシは死なん」
 膝の上で臓硯は呟く。
「お前が死んでもワシは死なず、生き続ける。この老いた、醜い身体での。死のうと思っても、もう死ねん。痛くても死ねん。苦しくても死ねん。拷問じゃな」
「ざまみろ、お父さん」
「これはお前の復讐だったのか、雁夜…」
 雁夜は臓硯の頭に、かさかさに乾いた自分の白い手を載せた。
「さあな」
 瞼が閉じ、異形の眸が閉ざされる。
 父はそのまま寝入ったようだった。雁夜は父の頭を何の気なしに撫でながら、小春日和の陽気の中に、老いた父の匂いと死を眼前にした自分の饐えた体臭をかいだ。それはかすかに甘く、相応しくないもののように思えたが、父の身体の不死性を思うと、また永久とはそのような匂いがするのかもしれないと思った。
 身体が軽くなる。もう父を恨む気もない。
 ――俺は結局、間桐の魔術師として生きたんだ…。
 マキリ・ゾォルケンの魂は、間桐の最後の魔術師を永久に記憶し続けるのだろうか。
 そうでなくても構わない、と雁夜は笑う。
 昼を過ぎたら布団を取り込もう。一日晴れのようだから焦る必要はない。お昼を食べて、のんびり働いていい。父ほどの時間はないにしろ、雁夜も今日の午後をたっぷり使うことはできる。さて、その前にお昼の準備だが。
 膝の上がぬくもっているのを雁夜は感じた。死なない身体にも温度はあるのだ。
 頭をどかそうと声をかけた。
「お父さん」
 春眠には遠いが暁を覚えぬ父は返事をしない。




2012.4.1