犬牟田宝火と伊織糸郎の交情




 伊織糸郎である。疲労していた。どこかから腹に響く重低音が鳴り渡った。ぐらりときた。
 空腹はどうとでもなる。だが眠い。眠るべきだ、と伊織には分かっている。効率が悪い。何もかもだ。壁から突き出した青白い照明に照らされる机の上には雑然と物が積んでいた。振り向けば広く天井の高い空間に重低音の木霊が残る。細かな砂が天井から降り注ぎ、床に放置された雑多な鉄くずを白く染めた。ここはそもそもこの地下建造物の演習室であった一角で、例の道頓堀ロボの実験場であったという。研究者でもある伊織に馴染まない空間でもないが、視線をどこに投げてもあの見慣れたミシンも何も目につかないことに、ここは懐かしの本能字学園ではなく、居心地の悪さというか些かの心許なさを感じるのも事実だった。ここで折れるようには育てられていないが。
 溜息をついて腕で払い、空いたスペースにカップを持ってくる。持ち上げたそれが予想より軽く、手は不安定に揺れた。空のカップの底にはコーヒーの輪が茶色く残るが、いつ飲み干したものか思い出せぬ。苦笑した。伊織はもう一度溜息をついた。自分は確かに眠るべきだ。
 ヌーディストビーチの基地は流石反体制組織なだけあり、文字通り地下に潜ったものだ。もう何日太陽を拝んでいないだろう。否、今生身で地上に出るのはあまりに危険である。カヴァーズがゆらゆらと服の幽霊のように街を漂う光景は伊織の背筋を凍らせた。あの赤く輝く生命線維。今まで誰よりも直接それに触れ、それを扱い、それを誂えてきた。決して油断も慢心もしてはならないと鬼龍院皐月、そして伯父の揃からも口を酸っぱくして聞かされ、極制服の暴走を目の当たりにしては胸に刻んできたはずなのに、意外に感じるほどの恐怖が身体を刺し貫いた。自分はあの赤く輝く糸に生身を貫かれた。伊織は両腕をそっと擦り、三度目の溜息をつく。
 また轟音が響く。何を建造しているのか、元本能字学園生徒には知らされていない。ここ大阪で、宝田を救出してまで着手しているのだから、戦闘の要となる何らかではあるのだろうが。伊織は役に立たないカップを押し退け、書きかけの設計図を目の前に広げた。カヴァーズは圧倒的な力を持つが、元は寄生する生命体だ。そこにこそ人間という存在の必要性もあれば弱点もある。人を飲み込んだカヴァーズに有効な攻撃とは。
 理論は完成していた。だが、現物が完成しなければ話にならない。背後にはヌーディストビーチの兵器の残骸と共に失敗作がごろごろと転がっている。広大な空間を占めるのは沈黙した機械ばかりだ。その片隅に伊織は机を据えて作業を続けているのだ。
 伊織は赤いペンを取り上げ、設計図の上に走らせようとした。だが有益な線は一本たりとも引かれなかった。――頭が働かない。時間がないというのに。
 ノックの音もなくドアがスライドし、その音に振り返る。犬牟田が立っていた。彼にとってはノックも効率の無駄だ。いいや、自分の周囲でノックをして部屋に入る人間などいはしなかったが。近づいてくる犬牟田を眺めながら、北関東に向かった猿投山は無事だろうかとぼんやり思った。彼もまたノックをせず自分を驚かせた。その後目を縫ってくれと言い出して更に驚かせたが。
「どうだ?」
 何がとは問わない。現在二人の間で話題と言えばこの急急救命具のことしかない。
「芳しくない」
 伊織は最新の失敗作に目を遣り、破損箇所を目で追った。カヴァーズから人間を吸い出す際の負荷が大きすぎる。ようやく赤いペンが動いた。
「君の口癖を借りれば、最小の労力で最大の効果を上げる必要がある。取り込まれた人間を無傷のまま排出させなければ意味がないからな」
 犬牟田は机の上に積まれた紙の束をぺらぺらと捲り、この資料、持ち出せたのか、と訊いた。極制服製造の要、絆糸に関する設計図だ。いいや、と伊織は首を振った。
「あの状況で持ち出せる訳がない。重要な部分は、まあ頭に入っているが」
「わざわざ書いたのか。オレに言えばデータを提供したのに」
「勿論だ。君から提供されたデータがなけりゃこの救命具は完成しない。だが、職人の勘とでも言うのかな、この手が覚えたものはなかなかデータ化できないものだ」
「そうかい?」
 情報を駆使し暴走極制服を止めて見せた犬牟田の戦いぶりは知っているから、伊織は首を竦めて再び設計図に向かった。犬牟田は更に雑然とした机の上から布の切れ端や、人体図のページを開かれた医学書を取り上げ、伊織、と呼んだ。
「で、どうだ」
「だから芳しくない」
「君の身体は」
 意外なところに飛び込んだ犬牟田の言葉に一瞬頭が空洞になった。白衣に包まれた裸体にそわそわと鳥肌が立った。
「体調はどうかと尋ねているんだ」
「皆と変わらない」
「青ざめてるぞ」
「照明のせいだ」
「伊織」
 机を越して犬牟田の顔が近づいた。それは異常な接近だった。手は既に伊織の首を抱き寄せていた。唇は耳元で伊織の名前を呼んだ。
「一つ提案がある」
 伊織は目を瞑った。次に犬牟田が何と言うかは分かっていた。
「オレとベッドに行くのはどうだ」
「からかっているのか、犬牟田」
「君がオレに告白した時も、今も、オレはこの問題に関してからかったことは一度もない。感情は少し変わったがね。昔はデータ収集のつもりで寝ようと思った。今は君と寝たい」
「ははあ」
 伊織は目を開けて、あきらめ顔で犬牟田を見た。
「眠いんだな」
「それは君の方だろうけど、結果さえ伴えばオレはどちらでも構わないね」

 犬牟田の戦闘服は、もう服とも呼べないものだが、ヌーディストビーチ元来の戦闘ジャケットよりは脱がせづらい。だが伊織にはどんな服の着せ方も脱がせ方も分かる。裁縫部部長の名前は流石だな、と裸にされた犬牟田は言った。伊織は黙って自分の白衣に手をかける。が、その手が掴まれた。
 ボタン一つ、二つで留められた白衣を犬牟田は脱がせた。狭く硬いベッドに身体を横たえた後は、犬牟田のなすがままだった。コンドームだけでなく、挿入に必要なものまで犬牟田はどこかから揃えていて、いつの間にそれらが自分しか使うことのない演習場脇の仮眠室に持ち込まれたのかと伊織は疑問に思う。
「男所帯の組織だぞ」
 犬牟田は笑った。
「何でもあるさ。どこにでも」
「知りたくなかった」
「力を抜け、伊織。気を楽にしろよ」
「している。もう欠伸をする力だって残っていないんだ」
 そう言いながら伊織は欠伸をし、失礼な、と犬牟田のキスをもらった。そうだ、キスもまだだった。
 伊織は数ヶ月前の出来事に思いを馳せた。やはり男の手が自分の裸を這った。それはいい。男なのに男を求めるのは自分の性癖だ。犬牟田はそれを知っているから伊織の告白にも驚かず、じゃあ寝ることにしてみよう、と提案したのだ。――どんなデータが取れるか興味があるからね。そこ言葉を掛けられた時の悲しさとそれでも尚犬牟田を求めたく動いた己の心の浅ましさを伊織は覚えている。この告白と玉砕を契機に自棄に陥ったのではないが、その後何度も猿投山と寝た。最初は目を縫う手術の直後、興奮のまま闇雲に腕を振るう猿投山に襲われた体だったが、結局ほとんど抵抗らしい抵抗もせず受け入れた。求められれば悪い気はしない。心眼通を会得した後は色事にも長けた猿投山だったから伊織の細い身体を抱くにも労りを見せた。あの猿投山は自分の気持ちを知っていたのだろうか。マスクを外され眼鏡を外されベッドに放り出された自分が別人の面影を掻き消そうと強く目を瞑っていたことに。
 誰も知るはずはない。伊織の気持ちをしっているのは、伊織自らその口で秘密を漏らした犬牟田だけだ。その犬牟田にも自分が猿投山に抱かれていたことを話すつもりはない。
 電子機器を一つも手にせず自らの肉体のみで自分を抱き、あやす犬牟田を、伊織は、かつて待ち焦がれていたはずの瞬間をあまりにも無感動に迎えた。意識はもう飛びそうだった。それでも触れ合った肌や、下半身の痛みが意識を現実に繋ぎ留め、伊織の目を開かせる。犬牟田は短く吐く息とともに笑っているようだった。
「伊織、面白い話をしよう」
 余裕だな、と伊織は口にせず視線だけをやる。こちらは思いの外乱暴な挿入の圧迫感にそれどころではない。
「童貞卒業の瞬間はどんなに素晴らしいだろうかと夢見るほどロマンチストじゃないはずだったんだけど」
 犬牟田は鼻の穴を膨らませ、ぎりぎりと耐える表情の中からまた笑った。
「これは、凄いね。たまらない」
 眼鏡が鼻の頭までズレる。伊織はたった今童貞を卒業した男を目の前にぽかんとしていたが、思い出して犬牟田の眼鏡を取り上げ枕元に置いた。
「ジョークかい?」
 ようやく尋ねると、悪い、と小さな声がして自分のものを掴まれる。それが硬くなっているのを知って、伊織は少し吃驚していた。苦しさで感じるどころではないと思っていたからだ。犬牟田が妙に巧妙な手つきでしごき始めたので何をするつもりだと伊織は犬牟田の目を見上げた。視線が合う。まさか感じるまいと思っていた快楽が、しかも今までに感じたことのない種類のものが身体の奥から込み上げ、伊織はシーツにしがみついた。
 絶頂までは急な坂を駆け上がり真っ逆さまに墜落するようなものだった。伊織はあっと言う間に吐精まで導かれ、意識が白く染まる中漂っていると、脱力しきった身体が揺さぶられた。犬牟田はこれからなのだった。確かに受け身の人間をイかせるのは甲斐性かもしれないが、とぐったりしながら伊織は苦笑し犬牟田に手を伸ばした。力の入らない手が背中を抱き犬牟田はハッハッと犬のような浅い息を吐きながら絶頂の瞬間まで昇り詰めた。
 何時間かは眠ったのだろうか。古い毛布が身体を覆う、その感触はこれまで上等な布地にも飽きるほど触れてきた伊織には決して触りのいいものではなかったはずだが、人の身体を覆う布とはそのぬくもりによって肉体と精神に安心感を与える。今、この毛布は十分にその役割を果たしていた。そして隣に横になる男もだ。犬牟田の手が伊織の淡い金色の髪を飽きることなく梳いていた。
「ピロートークをしなきゃと思ってたのに。待ちくたびれたよ」
 眼鏡を外したままの顔は珍しい。あまり見たことがない。
「どれくらい寝ていた」
「まだ朝にはなっていない」
 犬牟田の腕が抱き寄せようとするので、まだ仕事には戻らないと言ったが、しかし腕は解けなかった。犬牟田は半ばのしかかるように伊織の身体を抱いた。
「さあ」
「さあって何だ」
「ピロートークをしよう」
「そういうものは無駄だと考えるタイプじゃなかったか」
「ピロートークが無駄だと宣言したことは一度もない。ところで救命具の話だが」
「なんだ。結局そのことか」
 もう頭は真っ白にしただろ、と犬牟田は伊織の頭の上に顎をのせ、ごつごつと顎を動かして見せた。がくがくと振動が伝わる。
「睡眠は脳の活動に最も重要なものだからね。雑多な情報が整理され、新しいアイデアを生むきっかけになる。どう?」
「ああ…」
 伊織は呟き、軽く瞼を伏せると犬牟田の胸に広い額を寄せた。
「もう少し何か喋ってくれないか」
「喋るさ。何がいい」
「何でもいい」
「何でもという答えが一番困るらしいよ」
「統計による?」
「まだ未完のオレのデータベースによる」
 二人は顔を見合わせて笑った。笑うだけの余裕が伊織にも生まれていた。取り敢えず煩悶を棚上げにすることのできた心は軽い。
「…君は」
 伊織は躊躇いがちに口にしたが、そっと手を伸ばした。
「その、ちゃんと」
「イッたかって?」
 犬牟田はくすくすと笑った。証拠は床の上に落ちていると言った。伊織はコンクリートの冷たい床の上にぺしゃんと落ちたコンドームを想像して、ふ、と口元を緩めた。
「こんな身体で」
「卑下するな伊織。オレを心から求めてくれた身体だ。しかも何年も前からね」
 感想を聞きたいか、という囁きとともに手が下りる。手は躊躇いもなく尻に触れ、まだじんじんと痛むそこを撫でた。
「あの熱を、君の熱を聞きたいか? この脳というデータベースに情報は余すところなく記録されている。また不確定な形をもったオレの心というものもあの熱さを記憶している。それを」
 聞きたい?という囁きに、伊織はしつこいなと苦笑したが、そうだな、と答えた。
「童貞卒業の感想でも聞こうか」
「いや、驚きの連続さ。マニュアルは熟読したしシミュレーションも完璧だった。それなのに君が痛がったし、オレはすぐにもイきそうになった。心底焦ったよ。しかし君に救われたな。君の身体に」
 尻を撫でる手に、秘密と思っていたことも全て知られたのだと感じた。しかし伊織は逃げ出すことはなかった。知られたからと言って、もう最初の身体に戻れる訳ではない。それに犬牟田は自分の身体に救われたと言っている。経験を持つ身体に、だ。
「最初から知っていたのか」
「最初からさ。オレの情報網を舐めてもらっては困る」
「情報戦略部委員長ということか」
「そういうこと」
「知っていてよく失望しないな」
「何故?」
 手はさわさわと腰から背中へ這い上がった。
「不測の事態、未知の情報、意外な展開。君はこんなにオレを楽しませてくれたのに」
 腕が緩み、伊織は犬牟田の腕を枕にして再び眠気が襲うまでの僅かな時間を喋って過ごした。犬牟田の手は飽きず伊織の長い髪をいじり、時々口元に笑みを浮かべた。伊織は傷痕の残る腕を撫で、やれやれと息を吐いた。
「どうしてこんな非常時に幸せな顔ができるんだろうねえ」
「セックスの後だ。幸せに決まっている」
 犬牟田は真面目に答えた。落ち着いてキスをしたのはその後だった。伊織は犬牟田の首を抱き、改めてまじまじと目の前の男が自分を抱いたことに思いを巡らせた。
「君もじゃないか」
 反駁するように犬牟田が言った。
「とろけそうな顔をして」
 そうしてもう一度降ってくるキスを、拙いが確かなぬくもりを感じるキスの快感を、伊織は裸の全身に行き渡らせる。
 そうだ、犬牟田宝火。伊織が求めた男。とうとう交情は果たされたのだ。




2014.3.6