泣けるほど柔らかな傷痕




 耳に手を伸ばされて思わず振り払おうとしてしまった。
「あ、ええと…」
 武田の目に怯えが走る。これから男を抱こうとする、そのことには抵抗を示さない根の強さがあるが小心は染みついた習いだ。
「いや、こえーから」
 思わず本音が出た。すみません、と言われた。
「どうも甲斐性がないですね」
「甲斐性って問題じゃねえし…。いや、つーかよ、ピアス外す必要ねーよな」
 すると目の前の顔が柔らかな笑顔になる。理由が分からない。
「お店でも、いつも着けている訳ではないのですね」
「一応客商売だしな。青少年も来るしよ」
「これはピアスの穴を守るだけのもの?」
「塞がっちまうだろ」
 烏養は耳からそれを外して見せた。樹脂製の半透明がころりと転がる。へえ、と武田が抓み上げたのを烏養は取り返しゴミ箱に放った。軽い、小さな音がした。
「使い捨てですか」
「まあな」
「穴は塞がっても傷痕は残るって言いますよね」
 不意に身を引かれる。ビジネスホテルだ。どうせ一泊だ。時間を気にすることはない。互いに薄給でありながらよくも金を捻出してこういうことをしようと思う。最初は武田が、だった。今は自分も同じ道を歩いている。どうしてこんなことに、という自問は今でも繰り返している。ただベッドの端と端、バレーの話をするでなく、選手の話をするでなく、まして仕事の話をするでもなく、好きに煙草をふかしてぼんやりとした時間を共有する居心地の良さはあった。
 しなければ…しなくてもいい。今でもするのは少し怖い。口が裂けても言えないが、緊張する。まだ慣れない。
 愛されることで得るもの。
 烏養はまだ武田を愛しているとは思っていない。
 煙を吹きつけると武田が一つ咳き込んだ。
「君の匂いにも、少し慣れた。煙草の匂いがするのが当たり前だから」
 また笑顔が向けられる。
 ああ、無香料ファブリーズの常備された生活。
 煙草を揉み消し、伸ばした腕で相手の肩を掴んだ。急な行為だったはずだ。しかし武田は悲鳴を上げなかった。目に怯えはなかった。
 愛を返さない。それでも平気なのだろうか。愛するだけで満足なのだろうか。胸を刺す痛みはないか。傷は。
 耳たぶに噛みつくと、掌の下、相手の肩がぞぞっとざわめくのを感じた。鳥肌を立てている。息を止めている。目を瞑っている。その思わず伏せられた目が静かに開いて烏養を見る。
「繋心君」
 僕はね、と武田は言った。
「これだけのことで嬉しくて仕方ない」
 言葉の最後が掠れて、スポーツとは無縁だったのだろう細い腕がしがみつく。押し倒されるには烏養は重量がある。それでも、これが愛だと武田の言う熱烈なキスの嵐を受けると、いつの間にか背中はベッドの上だ。
 真上から武田が見下ろしていた。小さな明かりの下でも顔が火照って真っ赤なのは分かる。自分も息が上がっている。だが開始の合図はまだだ。武田は動かない。
 土下座でお願いをするのは特技らしいが、自分の望みをねだるということを滅多にしない人物であるのは毎日隣にいて気づいていた。自分をホテルに誘った時は清水の舞台から飛び降りる覚悟だったろう。すると、そんな武田の内側から、本来の気質が顔を覗かせる。芯の強さは名の通りだ。一徹とは漢字が違うけれども。
 強い眼差しは真っ直ぐに烏養を貫く。相手の頬に手を寄せながら、烏養は既に目を伏せていた。恥ずかしかった。これは愛ではないのかもしれないが。新しい傷になるのかもしれないが。
 キスがちゃんと唇にぶつかったのは武田の手が誘ったからだ。
「繋心君」
 震える声が耳元に囁かれた。
「泣いてもいいですか」
「後にしろよ…」
 狭いベッドに二人で眠る。寝る時間としては早いくらいだ。翌朝は早くに目覚めた。二人でシャワーを浴び、バスルームでは明るすぎて烏養が首を振ったのでやはりベッドに行った。
「すみません」
 風呂上がりの武田は本当に幸せそうな顔をしている。






アサイさんへ 2014.6.15