運命以外の何者かが斯くの如く戸を敲く
ジャンプは店で売っていたから毎週読んでいた。 命を運ぶと書いて運命。 あの漫画面白かったよなあ。 運命。自分の祖父が名将と呼ばれるほどの監督であり、自分もまたバレーが好きだという根本を手放すことなくボールに触れ続けていること。時々、この球技との出会いは運命だったのかもしれないと思うことがある。母校のコーチを引き受けた日は運命に掴まれた気がした。じゃあ、この男との出会いも運命だったというのか。 武田一鉄という男が初めて、あのおどおどした態度で店のガラス戸を開けて入ってきた時のことを烏養は覚えていない。コーチに、という誘いの言葉からようやくぼんやりとした記憶が蘇るがあの頃は顔もろくに覚える気がなかったのではないか。度の強そうな大きな角縁眼鏡に、まだ学生ではと思えるような童顔を、しかしはっきりと記憶するようになったのは運命的出来事や衝撃的な何かがあったと言うよりも、刷り込みに近い。しつこい訪問だった。何度、とは覚えていない。それほどにしつこい訪問。 選手たちが試合を経るごとに表情を変えてゆくように、このバレー初心者の教師も顔が変わっていった。言葉は選手だけでなく自分の心にも響く。教師が教師という仕事をまっとうすることの難しさは自分が大人になって分かる。だからこの教師の、急に専門外の部活の顧問を任されて懸命になる姿に、烏養は感心する。小心でおどおどした姿はこの夏、もう随分見なくなった。見えるようになったのはその地金。責任感の強さは武田の芯の強さだ。芯の強い言葉だからこそ響くのだ。 その顔を今、正面に見、その言葉を聞いている。 「一回だけです」 武田一鉄との出会いが運命だとは、烏養は今この瞬間になっても思わない。 百歩譲って仕方の無い必然。 そしてこれはたった一度のあやまちだ。 「一回だけなんだな」 烏養は念を押した。 相手の言葉も、自分の言葉も、心許なかった。何だか恐怖から目を逸らして信頼の薄い手形に頼るような不安、からさえ目を逸らしているのではないかという自問。 隣のベッドには折り畳んだ服。シャワーを浴びる前に自分で脱いで畳んだのだ。武田のスーツは見当たらない。きっとユニットバスの隣に見える細い扉、クローゼットの中でハンガーにかかっているだろう。ビジネスホテルの無機質なツインルーム。 一回だけ。その言葉に仕方ないと肯の返事をした時はまだ気も安かった。一回抱いてやるだけなら、まあ何とかなるか。 ならなかった。 自分が抱かれる側だとは想像していなかった。 ビジネスホテルに踏み込んだ時さえ考えていなかった。先にシャワーをどうですか。その時の顔があまりに男前だったので気づいた。 そしてベッドの上に正座し、互いに眉間に皺を寄せている。嫌なものを嫌と言い切るのも男気、しかし男に二言無しは昔からの格言である。逆は嫌だ…と口に出すのは男ではない気が、した。 そしてもう一度最初の約束を繰り返したのだ。 一度だけ。 夏の最中だ。空調は寒いほどに効かせていた。肌がすっかり冷えている。武田の手が掴むのを熱いと感じて、肌寒さとはまた別の鳥肌が立った。 「一回だけのことです。君は一度のあやまちと忘れるかもしれません。その方が…いいのかもしれません。でも君が頷いてくれた、ここまで来て、許してくれた。僕にこの一回はきっと忘れられないものになります。だから今夜、全力を注いで君を愛する。ここまで来たんです、愛されることで得るものもあると信じてください」 武田は一息つき眼鏡の奥からじっと烏養を見つめた。 「繋心君」 この目とこの声で他の男も落としてきたのだろうか。 「分かったよ」 烏養は緊張を解き、肩を落とした。 「先生、あんたにまかせる」 「頑張ります」 笑顔がぱっと花開き、続いて聞こえた言葉に烏養は耳を疑った。 「予習はちゃんとしてきました」 「んん?」 顔を見合わせ、自分の目にも表情にも溢れる不安感はとどまることを知らなかったのだろう、武田が慌てて両手を振る。 「大丈夫です、女性とは何人か経験がありますから! 初めてじゃないですよ!」 「不安しかねえだろ!」 「優しくします!」 「優しくって、待っ、え、ええ?」 「準備も万端です!」 目の前にバッグをドサッと置かれてその中から取り出されたものを見ながら、目の前のものもこの遣り取りも本当に現実かと疑いたくなる。しかし武田は一生懸命で、どこからどう見てもいつも隣で驚き感激しそして時に自分以上に動じずあの若い選手たちを率いる武田一鉄という男だと思うのだ。肌で感じる。距離だけは、いつの間にかひどく近づいていた、顧問とコーチという仲だから。 「先生」 烏養は武田の両肩に手を置く。武田はぴたりと動きを止める。 「俺は先生の言葉を信じる」 と、決めた。 声は潰れ気味だったが届いた。武田は掴んでいたローションやコンドームのパッケージを手放し「はい」と答えた。黒い瞳がきらきら輝いてこちらを見ていた。 愛する、と武田は言った。その通りだった。尻の下に枕を敷いてもいささか不安定な腰を、武田は見かけによらず力強く支えた。自分のものにも触れられた。男同士だと、薄明かりの下でもはっきり分かった。しかし武田は萎えなかった。烏養に触れ、あんまり喋ると五月蠅いかもしれませんが、と気弱そうな前置きをしつつも触れる手には力を籠め、言った。 「愛おしいと思います」 烏養は力を抜いて全てを委ねた。 しかし事実痛かったのだが。 あやまちに相応しい痛みだった。翌日も響いた。しかし痛みが響くたび風呂上がりの武田の幸せそうな顔が浮かんで、怒りはやり場を失う。そもそも怒りではないのかもしれない。 得たもの。尻の痛みと、翌日の気まずさと。 「繋心君」 消えない記憶だ。 アサイさんへ 2014.6.9 |