足の裏がかっかと熱い。それが痛みだと気づきもせぬほどに我王は走り続けていた。星
が一つ東の空から昇り、同時にまた一つ西の端に没した。やがて、昇り来る星の光も、沈
む星の光も薄れ、変わりに空全体を覆っていた夜の幕が一枚二枚と剥ぎ取られ、姿を現し
たのは深い深い山の緑だった。
 日輪がその姿を現した時、ようやく我王は立ち止まった。果たして今自分が何処に立っ
ているのか知れない。しかしそれも関係のないことだ。目の前に陽があり、足の下に土の
あるだけのこと。彼の足は夜通し走り、何時の間にか雪に閉ざされた土地を抜けていた。
 乾いた土の上には血が点々とついていた。我王は岩の上にどっかと腰を下ろした。鋭い
石で切った足の裏の傷から、血は一滴、また一滴と土の上に落ちた。
 ふと。
 我王は首を捻った。気配である。いや視線だろうか。
 見えるのは鬱蒼と茂る潅木に背の高い草。その根元である。
 よく、それが見えたものであった。小さな小さな野鼠が、潅木の根元から頭を覗かせ、
こちらの様子を伺っている、否、じっと見詰めている。
「小鼠め」
 我王が笑うと、鼠は頭を引っ込め、また怖ず怖ずとその円らな目を覗かせた。
 血の匂いに驚き、顔を出したのだろう。我王は足の裏に唾を吐いた。
「お前もまた仏なのだ」
 野鼠は勿論応えない。我王は岩から飛び降りた。足の裏はかっかと熱い。しかし我王は
すぐにまた歩き出した。 山を越え、野を抜け、歩き続けた。



 乞われるままに鬼瓦を作り、人々の惜しむ声を背に聞きながら我王は村を抜けた。山間
の痩せた土地に少ない米を作り続ける貧しい村だった。道も細く、しかし我王は構おうと
しない。獣道を歩み、露を飲み、樹木の根元で眠った。
 その兎は何時の間にか我王の後ろをついて歩いていた。我王が立ち止まると、兎も立ち
止まった。特に追い払おうという意があった訳でもない。好きにさせたところ、兎はどこ
までもついてきた。
 いつしか小鳥が、栗鼠が、普段それを狙う狐や狸さえ、争いもせず我王の後ろをついて
歩くようになった。小鳥はその肩に止まった。栗鼠は我王の傍らに丸くなった。狐はそれ
を見ても目をぎらつかせたりなどさせず、穏やかに目を瞑った。
 我王が休むときは、皆が肩を寄せ合うように眠った。我王もまた静かにその隻眼を閉じ
た。
 二つ目の山に入ったときのこと。遠くで猟犬の鳴く声がした。我王は立ち止まり、振り
返った。獣達はじっとこちらを見詰め返す。我王が歩き出すと、彼らの足もおもむろに動
き出し後をついた。
 兎は妙にはしゃいでいた。耳をひくひくと動かし、我王の先を行き、誘うように足踏み
をする。それが嬉しそうに見えるので我王も好きに走らせる。兎はぴょんと高く飛び、何
度も我王の視界から消えた。
 だからそれを止めることは出来なかった。我王が猟師の姿を見つけたとき、兎はようや
く視界の端に白い点として浮かび上がったのである。
「やめろ!」
 叫ぶ声は緑に吸い取られた。
 鈍く光る鉄の矢尻を見ても、兎はひるむようすがなかった。寧ろ親しげにそれを見詰め、
笑むようにその場に佇んでいた。
 矢が猟師の手から離れ、射抜かれた兎が一瞬宙に舞った。
 我王がそこに辿り着いたとき、残されていたのは少量の血の跡であった。我王はそれを
抱くように地に伏した。獣達が頭を垂れた。押し殺すような嗚咽が地を震わした。



 足の裏がかっかと熱い。地は焼け、ひび割れ、からからに乾ききり、しかし尚も残った
涙の最後の一滴までも飲み干そうかとするように太陽が照り付けていた。我王について回
る獣達も随分水を口にしておらず、肋の浮くほどに痩せこけていた。
 彼らは谷へ向けて下っていった。ここの谷は大きい。きっと川が流れているはずである。
 しかしそこに待ち受けていたのも乾ききった剥き出しの土だったとき、我王は思わず声
を漏らした。獣達は心細げに我王を見上げた。
「…行こう」
 我王はゆっくりと言った。
「行くよりあるまい」
 行けども行けども水はない。休む木陰さえ見つからなかった。
 かつてはなみなみと湛えられた水の底であった場所に我王は腰を下ろした。獣達も足を
止め、舌を出して荒い息をついた。余力のある獣が地を掘ったが、空しく爪跡が残るだけ
であった。
 我王が溜め息をつくと、顎の下から汗が一滴したたり落ちた。
 まるで声がしたかのようだった。我王は誘われたかのように視線を落とした。大地の皹
から姿を現したのは一匹の赤蟻であった。
 赤蟻は迷わず我王の影の下に入り、落ちた汗の跡の上をこそこそと歩き回った。成る程、
我王には汗の一滴だが、蟻にはなんと大きな一滴だろう。我王は思わず赤蟻に手を伸ばし
た。その時。
 馬の蹄の音が乾いた空に響いた。獣達が立ち上がり、警戒の色を露わにする。我王は座
り込んだまま、赤蟻を見詰めている。
 先の日、打ちのめしたのと同じ格好をした役人が、今度は縄を持っている。
「この前はよくもやってくれたな」
 我王が応えないでいると、役人の一人が縄を投げて我王の首に掛けた。そして急に馬を
走らせる。我王は首を締められ、身体が乾いた土の上を引き摺られた。
「立て! 歩け!」
 我王は立ち上がろうとしては転び、獣に助けられ、ようやく立ち上がった。しかしもう
一人の役人が、持っていた杖で獣達を追い払う。
 かくして我王は都へと連行された。赤蟻を踏み潰してしまったらしい足の裏がかっかと
熱かった。



 胸が熱い。我王は岩の上に仰臥し、青く、果てのない天を見詰めていた。切り取られた
右腕の血もいつしか止まり、痛い痛いと思って仰臥するうち、背が岩と同化したような錯
覚を覚え、目が天に取られてしまったかのような気になり、腕どころか足も土に溶けてし
まったかのように感じたとき、斬られた腕の痛みは消えていた。
「…美しい……」
 忘我の状態のまま、我王はそっと囁く。
 日は段々傾き、西の端で強烈な火のような赤に燃えた。
 やはり、名前を呼ばれたような気がしたのだった。
 目玉を動かすと、頬の横に何かが座っている。何だろうか。最初に後をついてきた、あ
の兎だろうか。それとも師匠の死の後出あった、あの野鼠だろうか。
「猿田彦」
 我王は我に帰った。頬の横には、小さな赤蟻が一匹、こちらを見ている。我王が息を飲
むと、蟻は小さな足で我王の顔を這い上がり、鼻の上に止まった。
「誰だ」
 我王はそう問うていた。
「お前は、誰だ」
 空は火のように赤く燃えている。蟻の身体もまた燃えている。小さな命が我王の鼻の上
で燃えている。
「お前は……」
 我王の目から涙がこぼれ出した。もう差し伸べる手もない。それがあまりにももどかし
かった。我王は涙を流し続けた。
「ナギ」
 涙の溢れ続ける左目、失った両腕、胸も足も、蟻の乗った大きな鼻も、どこも全身が熱
かった。燃えるように熱かった。我王の命もまた燃えていた。火のように赤い空の下で、
命が二つ、明々と燃えていた。







命は巡る、魂も。

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