蟇郡苛と満艦飾マコの婚礼




 夏の夕は長く尾を引き、介添えに連れられて満艦飾マコが――満艦飾マコという名だった女が現れた時、開かれた障子の向こうに見える空は溶けきれぬ紅を残していた。そして苛は自分が改めて坂の下の、海にも近い平地にいるのだと、遠い空に思った。星はもはや与えられるものではなく、ただ空に光るものばかりだった。無星と呼ぶ。貧民街と呼ぶ。だが天上の星にすれば無星も三つ星も塵芥にすぎず、降り注ぐかすかな光はあまねく者に平等である。
 蟇郡苛という名に恐れる者がいなくなったとは言え、彼の腕っ節は極制服に頼った話ではなく、四天王として君臨していた身である。文字通り裸同然で放り出されたと思われているが、それなりの蓄えもあった。本来ならば全て没収されるところを今食うに困らず、花嫁と式を挙げ、ささやかながらも新婚旅行と呼べるような宿で初めての夜を過ごすことができるのは、おかしな話ではあるがあの機械然とした冷たい思考の持ち主、かつての朋輩犬牟田宝火の助けによる。犬牟田は式の直前苛の前に顔を出した。あらゆる行動に効率を求める男である。わざわざあの頂上がら下りてくるような足労は取らない。電話が鳴ったと思うとテレビ画面が明るくなり、そこに犬牟田の顔があった。
 彼がくれたのは素直な祝辞ではなく、どちらかと言えば嘲笑の類いだったが、それをわざわざ言うために時間を費やすのは無駄とは思わなかったということか。――精々楽しくやることだ、との言。四天王であった矜恃は苛に鹿爪顔をさせ、もう会うこともないだろうと言うと、当然とばかりに通信は切られようとした。犬牟田!と、おそらく最後になるだろう、声を上げて呼んだ。
「世話になった」
 テレビの前で深々と頭を下げる。礼の美しさは風紀部委員長の肩書きに今も相応しかった。別れの言葉はなく、顔を上げた時にはテレビの画面は暗く沈み、電話も切れていた。
 身に纏っているのはただの詰襟である。色はなんとか白に揃えたが、星を纏うことは叶わない。既に覚悟し呑み込んだことながらも最後に見た犬牟田の薄笑いが先までの日々を懐かしさと共に思い出させた。去来するものの正体は後悔であるか。迷いの生じそうになった瞬間、あり得ることではないのだが花嫁が支度部屋の婿を迎えにきたのである。全く場の空気など一切関知せず張り上げられる大声に苛は呆れたものだった。
「蟇郡先輩、お時間ですよ! 遅刻遅刻!」
 遅刻はおまえの専売特許だったろうに、満艦飾マコ。
 式でさえ静かと呼ぶにはお世辞の過ぎる状況で進んだのである。義父となる薔薇蔵、義弟となる又郎の男泣きもさることながら、まず花嫁であるマコが一分と口を閉じていなかった。静かになったと思えば寝ているのである。紙の指輪を交換する段になり、苛はこっくりこっくり船を漕ぐ白無垢をつついて起こさなければならなかった。それを覗けば一番静かだったのは始終面白くなさそうな面をしていた纏流子である。
 披露宴は果たしてそれを名の通りの宴と呼んだものか。しかし宴会であるには変わりなく、新郎の親族が一人たりとも参列しておらずとも問題はない、祝う家族親類隣近所その他諸々ここにありとばかり、満艦飾に連なるものだけでない、どこの馬の骨とも知れぬ人間まで紛れ込んで飲めや歌えの大騒ぎだった。苛にはスラムの人間が全て集合したのではないかと思える騒がしさだった。隣のマコは冷やした甘酒を口に、ひどくご満悦だった。三三九度の時からもう酔いつつあるのだ。苛は呑み込んだ現実と覚悟の締めとしてそこで最後の諦めをした。自分もこれからはこの騒がしさの中で生きるのである。
 引き摺った空き缶をガラガラ鳴らす車屋に運ばれ旅館に辿り着いたのは空を真っ赤に染める夕陽の時刻だった。マコはまたひとしきりはしゃぎ、着崩れた裾からは白い脚がちらちらと覗いた。セーラー服を着ている時は惜しげもなく晒される脚ながらも、何故か苛はいたたまれず落ち着くよう繰り返し、結局頭を軽くごつんとやった。
「へへ…」
 ようやくおしゃべりを止めたマコは苛を見上げ、結んだ口元をちょっと震わせる。そこに照れを見出した苛が動揺した。顔は夕焼けと同じく赤く染まった。
 介添えがマコを連れ去り、苛は一人部屋で待った。隣の座敷には既に布団が敷かれている。用意は義母である好代がしたとのことである。
「蟇郡先輩お待たせしましたー!」
 あっけらかんとした笑みも両手を高く挙げた万歳も、これから初夜の褥に入る新婦とはまるで思えないが、これは確かにそうなのである。介添えは影のように消え、残されたのは新郎と新婦の二人となれば。
「蟇郡先輩?」
「寝るには」
 苛はマコの背後、障子の向こうを透かして見るように目を細めた。
「早いか」
「もう眠いんですか? あたしもお腹いっぱいだしくったくただし気持ちいいお風呂に入って準備万端って感じです」
 準備万端。着物は満艦飾の親が出したものである。人を殺した数の方が多いという闇医者がいったいどれだけの財産を抛ったのか。苛の目の前にいるのは、貧民街の少女とは言え、親からすればたった一人の娘である。頬が赤いのは、薄くはたいた白粉と紅のせいだった。マコはそれらの一体どれだけを分かっているのか。
「じゃあ、寝るか」
 自分のこの言葉の意味の幾ばくを汲み取っているのか。
「はい!」
 元気のよい返事は美しき紀律をこそ尊ぶ苛の、本来好むところではあるのだけれど。

 上等の布団、とは言え上流の生活からすれば安物。だがマコには雲のようにふかふかしたものに感ぜられるらしく、つまり明日からは自分も煎餅布団の世話になるのだなと苛は思う。枕元には揃いの寝間着が用意されていた。
「お揃いのパジャマだよ!」
 マコが苛の分を広げて見せる。丈はちょうどいいが、腹回りがでかすぎた。恐らく薔薇蔵の体型を参考にしたのだろう。あの太鼓腹である。
「ポケットはあたしが縫ったの」
「おまえがか?」
「見て見て、このアップリケね、あたしのポケットのと色違い」
 もう片手で引き寄せたマコのネグリジェは細身で、この二着の寝間着の差が自分とマコの体格の差なのだった。口八丁で四天王どころか鬼龍院皐月をさえ相手に渡り合った女だが、やはりまだ少女であり、身体はこんなにも細い。首など、と苛は手を伸ばした。この手の中で折れてしまいそうだ。
 帯を解きにかかると、マコがまたぐっと黙り込み口をもぐもぐと動かした。だがどうしても我慢できなかったらしい。一糸纏わぬ姿で布団に転がされた時にはおしゃべりは止まらなくなっていた。ドキドキするとかこんなことは初めてだとか、そのうち言葉は上滑りして今頃家にいるだろう家族のことや纏流子のことを喋り出す。挙げ句犬の心配を始めた。初めは不安故だろうと納得していた苛だが、次第に我慢ならなくなった。マコは本当に楽しそうに喋るのだ。今、着物を脱がされていることも、着物を脱がす苛の手もまるで関知せぬという風に、言葉だけが溢れて苛のいない世界を恋しがる。――これは初夜の褥だぞ。それが新婦のこの仕打ち、か。
「満艦飾!」
 今や旧姓となったその名で呼んだのは、彼女を初めてこの視界に捉えた時、自分が尋ね相手が名乗りこの心の隅に留め置いた名前だからだ。キュッと音を立てて蛇口の閉まるようにマコのおしゃべりが止んだ。
「何故、おまえはそうなんだ」
「蟇郡先輩…?」
「いつもと同じように、いやいつもより酷い。口ばかり動かして益体もないことをペラペラと。俺が…」
 瞼の裏に一瞬、かの女性の姿がよぎった。
「俺が皐月様のために守り通した純潔をおまえに捧げようという時に、おまえにとってはこれも下らぬ戯れにすぎんか満艦飾!」
 障子を越して、ようやく潮騒がここまで届いた。座敷も長く余韻を残していた夏の夕もようやく夜の中に落ち着き、とうとう二人きりの褥の…。視界がわずかに暗くなったのを苛は絶望のせいかと思ったが、そうでないことをすぐに教えられた。マコはこれまで聞いたことのないような囁き声で、蟇郡先輩、と苛を呼んだ。手が伸びて頬を拭う。
「血が出てる…」
 血涙は滴り落ち、裸に剥いたマコの存外ふくよかな胸に点々と染みを作った。
「ごめんなさい。あたし嬉しくて」
 マコはまた唇をもぐもぐと動かし、あたし、と声を大きくした。
「あたし、お嫁さんに、蟇郡先輩のお嫁さんになっちゃったのが、すごく嬉しくて!」
「満艦飾…」
「マコだよ! 今日からあたし、蟇郡マコさんだよ! 先輩が…あたしの旦那様!」
 口づけをしたのはその日それが初めてだった。マコは照れて、えへへという笑いが止まらなかった。苛ももう止めなかった。好きなだけマコに笑わせ、うるさくなればその唇を塞いだ。勿論、マコの笑いは余計に止まらなくなったが。
 男と女が枕を共にする手順とは。本能字学園にそのようなものの存在を風紀部委員長が許すはずはなかったのだが、猿投山はその手の雑誌やピンナップをこっそり持ち込んでいて嫌がる苛の肩を掴み耳に手順の詳細を吹き込んだものである。それを思い出すのは癪ではあったが、触れてみれば見た目以上に細く脆そうな女の身体を愛おしむにそれは必要だった。マコはちらちらと何度も苛の下半身を見ては目を逸らし、うわぁ、と声を上げて顔を覆った。苛が心配になって覗き込むと頬も耳までも、枕元のランプ明かりにも分かるほど真っ赤だった。
「マ…」
 唾を飲み込み、改めて口にする名。
「マコ…」
「だいじょうぶ」
 少しあやしい呂律でマコは返事をした。
「あたし頑張る」
 しかし宣言虚しくその瞬間は痛い痛いと、花嫁の恥じらいも乙女のつつしみも初夜の雰囲気もぶち壊す大声で喚き、まったく色気のない…と苛は肩を落としそうになったものの、自分とて色気など大して知りもせぬ身だし、それにこれがマコである。神前で誓いを立てた自分の可愛い新妻なのだ。苦しいのは苛もそうであったが、マコは泣かんばかりの喚きようだ。想像がつかないが、倍は痛いのだろう。
「マコ」
 本当に涙の滲み始めた目尻に囁きかけ、額を触れ合わせた。
「せんぱい、痛い、痛いぃ…」
「マコ、俺をおまえの旦那様だと言ったな」
「うぅ…」
 ぐふん、と息を吐き、そうだよ、と堪らないらしい両手が苛に抱きつく。
「だから、あたし、が、んばる…」
「なあ俺はまだ大事なことを…言っていなかったな」
「ふぇ」
 花嫁に、閨の明かりの下囁く言葉は一つ用意されるばかりである。
「愛しているぞ」
 その時マコが妙に高い声を上げ、今の声はと思う間に身体が重なるにちょうどよいように、二人は近づいたのだった。
「えへ、へ」
 マコは睫毛の上に涙を残しながらも、健気に笑った。
「あたしも…あたしも……!」
 あたしの旦那様だ、とマコは爪を立てるのを止め掌でぎゅっと苛の身体を抱いた。
「大好き。大好き…!」
 夜の更ける頃、すっかり疲れ果て子供のように眠りこけようとするマコの身体を支えて揃いの寝間着を着せ、布団の中に入れた。自分も布団に入った時にはもう寝ているだろうと思ったが、マコの瞼は重たそうにだが開いてとろんと潤んだ瞳が苛を見つめた。小さな声が、おそろいのパジャマ、と呟いた。
「ねえ、先輩」
「なんだ」
「あたしたちの赤ちゃん、先輩に似てるといいなあ」
「…どうしてだ」
「先輩の福耳」
 マコはくくっと小さく笑った。
「きっとお金持ちになるね」
 小さな手が苛の胸にしがみつき、やがてすぐに寝息を立て始める。
 苛はゆっくりした仕草でマコの肩を抱き寄せた。潮騒が聞こえた。星の光もかき消す満月の光がさっと障子に射した。マコの爪の間はわずかに汚れていた。拭った血の涙が染みたのだ。汚れていたが、尚も美しい手だと思った。初夜の褥の花嫁の手である。自分を抱いた女の手である。穢れようがない。苛は瞼を閉じる。このように厚い布団は今宵まで。明日からは煎餅布団の生活だ。
 だがマコは――俺の女房だ。
 星は遥か天上に、だが人生の続く限り腕の中の女を守り生きていこうと蟇郡苛は誓った。




2013.11.4