太宰治の『駆け込み訴え』を自分の文体で書いてみる




 森の夜道をひたひたと走る、足音が自らの呼吸と一体となって、地を一歩踏むごとにそれは怒号となって響いているかのように思われた。暗い森を彼はひた走った。そうせねばならなかったから。神所への道のりは分かっていた。どんなに暗い夜道だろうとも彼は迷うことはなかった。彼の心もまた…。
 ――私は迷ってなどいないぞ。
 そう繰り返すのだった。
 もう迷うものか、すっぱりと申し述べるのだ、あの男の居場所を。あの人は…あの方は、もう夕餐もすみ丘の上の料理屋を出ただろう。そして小川の彼方へ、あのゲッセマネの園へ、弟子たちと共に散歩に出かける頃だろう、天への祈りを捧げるために。
 ――私はあの方のことならよく知っている。
 なのに何故、今自分はその男の隣にいないのか。黄昏の道をわき目もふらず神所目指して走っている。遠く離れてしまっている。
 不意に彼はふわふわとしたものを踏むような足取りになった。しかし止まらなかった。もう止まることなどできなかったのだ。彼の足は右、左、右、左と前へ踏み出され、木立の向こうにちらちらと神所の灯が見えるようになった。
 ――売ってやるのだ。
 彼は繰り返す。
 ――あの人を、いやあの男を売ってやる。
 そのために走っている、いっさんに、わき目もふらず、まったく逆の方向へ。もう同じ道を歩むことなどできない。この裏切りは運命だ。
 ――だって…、
 彼の足は止まった。神所の門の太い柱が目の前にあった。ここを一歩踏み入ればもう引き返すことはかなわない。まだ今ならばあの人を助けることができる、と過去の自分が遠い背中から囁きかけた。彼の耳にそれは聞こえたが、しかし彼は胸の内から遠い声に向かって諭してやらなければならなかった。
 ――あの人が言ったのだ。私が裏切ると、あの人が。
 遠い声が消えて彼の呼吸は鎮まる。未練は消えた。ただ胸の中にはまだ燃えるように熱いものがあった。それが彼を突き動かした。彼は門をくぐり神所に入る。それが憎しみと名付けられようが、愛と名付けられようが、彼にはもう構わない。心臓の溶け出したようなどろどろとした熱を抱いて、彼は踏み入ってゆく。私の心臓を裂いたのはあの人なのだ、私の血と心臓を溶かしたのはあの男なのだ…。
「申し上げます。申し上げます。旦那様。……」
 前へ進み出、心の中で繰り返した文言を口に出そうとする。あの男はケデロンの小川の彼方、ゲッセマネの園にいます、と。それだけでよかったのに。
 言葉は止まらないのだった。あの男のことを考えると、言葉は喉から溢れ出して止まらなかった。溶け出した心臓のどろどろと熱い赤い血を吐き出しきってしまうように、彼は語り続けた。顔が奇妙に歪んでいた。同情を買うような泣き顔が、へつらうような笑顔にぐにゃりと溶けた。
 思えば自分が二月遅く生まれただけの同い齢、なのに何故ああも違うのだろう。悪口を並べ立てれば並べ立てるほどに、それを報う美しい姿が彼の瞼の裏には蘇る。
 ――あの男は皆に頭を下げられ、お世辞を言われ、ちやほやされるばかりだった。自分はあの男に…あの人にさえ頭を下げることができさえすればよかったのに――そこは商人だから――自分が食事の世話も宿の世話もしてやらなければ、あの人を始め、皆野垂れ死んでしまうことなど分かっていたから、それが私の使命だったのだ、そのためならば他の誰にも頭を下げた。
 金を計算し、やり繰りし、パンを揃え、魚を供し、報われぬ心が曇ってゆくのもじっと抱いて彼はあの男の後をついて歩いたのだった。
 ――そうしたら、ほら、あの春の海辺。
 お前の寂しさはわかっていると、あの人は天にます父のことばかり語ったが、自分の寂しさを、あの人も分かってくれていたではないか。そう思うと彼の口から出る言葉は濁った血ではなく、あたたかな春の清流のようにもなり、讃える言葉もまた永遠に湧き出る清水のようにとめどなく溢れる。既に後戻りのできぬ神所の床の上、彼は這いつくばり、かの人の美しい姿を思った。
 あの人のためならば何でも用意できた、この一生さえ捧げて構わなかった。もし自分の故郷にあの人が住まってくれたなら、といつか考えた夢想が再び彼の胸に蘇る。
 やはり自分の愛は本物だったのだ、と彼は重ねて確信した。心臓の溶け出した熱い血が身体の内側から溢れ出そうとしていた。天国ではない、来世ではない、今この世の歓びをこそ彼はあの人に捧げることができた。
 ――あの人がそれを受取ってくれたならば、自分のことをちゃんと真正面から見てくれたならば。
 しかしそれは成就しない夢だったのだ。海の泡のように脆く淡い夢想だった。あの人は美しい、と彼は今でも何度も何度も繰り返すことができるのに――事実繰り返しつづけている――憎しみは彼の言葉に、彼の仕打ちに打たれた全身から滲んでくるのだった。満ちた愛情の熱が心臓を溶かすのだ。そしてあの男の言葉が、仕打ちが刃を入れる。憎しみがどろりと流れ出す。
 ――私はあの人の望むことを考えたのに、望むことをしたのに。
 マルタの妹のマリヤがしたこと、あの香油の事件。彼は今でも身体がわなわなと震えそうになる。事実それを語る口は震えて、吐き出したこの言葉が溶岩のように大地を割りあのいやしい女を地の底に突き落とさないかと、そうさえ願った。あの女は私のあの人にいきなり香油をぶちまけてずぶ濡れにしたのだ!
 彼は女を叱ってやった。それなのに、それなのに。
 ――嫉妬の炎は未だ消えぬ。
 今この時にもあの男の熱を帯びた視線が自分の頭上を通り過ぎあのいやしい女に注がれている。彼にはそれを遮ることができない。逆に怒られる始末で。
 ――凡夫め。
 あの男のことを、心底そう思い憎んだのだった。涙が溢れた。両頬を濡らしながら申し立て、涙に濁りが洗われると、やはりあの男を殺そう、私が殺してさしあげなければならない、と旅の道々に繰り返した思いがつるりと輝き出で、彼は涙を拭い、その後の物語を語った。エルサレム宮での出来事には本当に呆れ果てた。宮に入った途端、縄の鞭を振り回して商人を追い回し情けないほどの甲高い声でどなりつける件を語るに至っては、死は確定的なものと信じられた。終わりは近づいていた。あの男にも、彼にも。
 彼は先の夕餐を思い出す。全てが、あの男の一呼吸に至るまでが思い出される。
 ――あの人は私の足を洗ってくれた。そして辱めた。
 たった一つまみのパンで旅に終止符は打たれた。自分が裏切ると衆目の前で晒し上げた。たった一つまみのパンを口の端に押し当てることで。それどころか生まれて来ないほうがよかったとさえ言い、示したのだ。
 全てはなされなければならないこと。自分が裏切るとあの男は言い、彼は裏切るために黄昏の道を走ってこの神所までやって来たのだ。熱い涙に洗われた愛も、切り裂かれ溶け出し溢れ出した心臓の中でかき混ぜられ、正体がなくなった。愛も憎も今や彼の中では一つのものだった。彼は泣きながら、私はあの人を愛していない、と告白した。偽りを言っているとは最早思われなかった。
 全てが清々しく、何もかもが彼にははっきりと感じられた。森の中で囀る小鳥、美しいあの人の姿、ゲッセマネの園で弟子たちに囲まれるあの姿。あの男は…あの人は誰なのか。そこへ肩を並べる自分が何者であるか。
 彼は銀三十を抱く。ずっしりと重い銀貨の袋。あの男からの愛を受けることの能わなかった両腕に銀を抱く。――彼は商人だからだ。
 名乗らなければならなかった。あの男を売り、銀三十を得た自分の名前を。
 彼は深々と頭を下げ、こう名乗る。
「私の名は、商人のユダ」
 へっへ、と短い笑いが口を衝いた。
 ――そうだ、私は嗤ってもいいのだ。
 彼は顔を上げ、もう一度こう名乗る。
「イスカリオテのユダ」




2012.11.10 けろさんのリクエスト。