下り列車心中未遂




 仏滅の朝から色んなことが休みになる。
 まず学校の創立記念日で休み。練習は午前中の涼しい内に。で、学校に出てくる。休憩後、再び練習。昼飯。更に自主練。どこかの時点で空がゴロゴロ言い出して、あーこれは一雨くるなと監督が言った瞬間に降り出すから中年のオッサンはずぶ濡れになりながら愛息子を先頭とする選手たちに文句を言われたり何故だか罵倒されたり。しかし口の悪さは俺たち全員を集めたよりも悪い中年だ。その上監督。誰も敵うはずがない。
 泥だらけの濡れ鼠になってボールや何かを片付け屋根の下に入り、急に耳が聞こえなくなった。雨の音が大きすぎるんだ。何も聞こえない。隣で雷市がパクパクと口を動かす。何を言っているのかよく分かんねぇけど、雷市と言えば大体腹を空かせてるし昼飯前だし、練習も中断じゃフラストレーションが溜まってるんだろう。俺は乾いたTシャツを雷市の頭から被せ、行くぞ、と部室を出て行く。言ってから俺の言ったことは雷市に通じているだろうか、と振り向いたら雷市はバタバタ足を動かしてついてきていた。
 乾いた靴も駅に着くまでには半分濡れている。雷市の靴は親指の当たる所が薄くなり始めている。泥水は靴下まで染みてるのに笑顔だ。傘もささずに、雨の中を。
「雷市、傘は?」
「傘、か、か、カハハハ」
 ないっス、と顔を真っ赤にして頭を掻くのを見て俺は馬鹿かと気づいた。でも監督も馬鹿か。何で傘くらいないんだ。安い傘でいいのに。ビニール傘も買えないくらい轟家の借金はえげつないんだろうか。そうなんだろう。でなきゃあんな…。
「真田先輩」
 雷市がキョドる。俺が傘を持つ手をだらんと垂らして雷市を見つめているからだ。そして怖いくらいゆっくりと雷市の上に差しかけたからだ。じわじわと雨が肩に染みこむ。冷たい。九月の雨はこんなに寒かったか。記憶にない。二学期の最初はいつもいつも暑い暑いと繰り返してばかりだったはずだ。っていうか俺は雷市が来る前のことを結構忘れてるみたいで、とにかくこいつと過ごす春夏秋冬が新鮮でしょうがない。っていうかまだ春と夏しか過ごしてない。そうか、雷市がいると九月の雨も冷たいのか。
「雷市」
 名前を呼ぶと雷市の喉がクンッと攣る。俺はとびきりの笑顔で尋ねる。
「何喰いたい?」
「あ、ば、……肉!」
「バナナな」
「肉っス!」
「じゃあバナナワニ園行くか」
「バナナワニ!」
 その瞬間雷市の目が輝いて雨の中に太陽でも落ちてきたみたいに眩しい。いや、名前的に稲妻?
「バニ喰うんスか!」
「バニって何だよ」
 熱川まで行っちゃうか、と言うと雷市は首がもげるかってほどぶんぶん頷いた。多分熱川ってどこか分かってねぇだろうな。そんなんじゃお前、マジで静岡まで行っちゃうぜ。
 下りの切符を横浜まで買って――「横浜のバナナワニ園? カハハ」――シートに腰を落ち着ける。雷市はシートの上で二、三度尻をボヨンボヨンと上下させる。そんなフカフカでもねぇんだけどなぁ、アレだろ、こいつんちの座布団は煎餅よりも薄くて電車のシートさえフカフカしてるっていうオチなんだろ。俺は雷市の隣で同じように尻を弾ませる。カハハ、と笑う雷市の頬が赤い。
 横浜なら美味い店は山ほどあるが俺もそんなに詳しい訳じゃない。こないだテレビに出てた店はどこだったろう。豚足が美味い店。それよりも野球ボールくらいのハンバーグを出す店がいいか? 正体の分かる肉がいいかな。俺は雷市を驚かせたいから雷市には相談せずケータイで情報を探す。雷市はケータイの画面が気になるのかチラチラ覗き見する。俺はわざと画面を隠す。
「エッチ」
 赤くなった雷市に肩をぶつけると気を許した笑い声が返ってくる。しばらく肩を押し合いへし合いして、ちょっと離れたところに座っているオバサン集団の注目を浴びる。羨ましーだろ。
 雷市がモジモジしてるのは俺の携帯が気になるっていうよりも多分この空気に馴染めてないせいだ。平日の昼間っから電車に乗るなんて、移動以外にあるはずもなかった。移動中なら野球のことを考えればいい。これから対戦する投手を頭の中に思い描き、それを片っ端からぶっ飛ばせばいい。でも今は行き先さえ分かってない。横浜だけど、そういうことじゃなくてだ。
「雷市、お前洋楽とか聞く?」
「え? 英語とか?」
 おれえいごにがてで…、と呟く雷市の声は日本語の古代の呪文か何かかって感じで、こういう時の雷市は弱く見える。つか、野球から離れた途端にそうだ。バッターボックスではバケモンどころか古代の怪獣呼んできちまったんじゃねーのってくらいの気迫なのに、社会の中での雷市はただの高校一年生より弱々しい。その時俺は雷市の身体の未成熟なのとか野球に飢えた心の裏側のひどく柔らかくて脆そうなのに直接触った気分で非常にヤバイ。
 雷市の片耳にイヤホンを突っ込んで、もう片方を自分の耳にねじ込む。ボタンを押すと流れ出したのはBRAHMAN。いきなりエレギの音が耳を刺す。雷市がうおっ、と小さな声を上げる。肩までピョコンと跳ねる。何だよその可愛いリアクション。
「よ、よーがくスか」
 ドキドキしながら聞いてくる。
「そー」
 笑顔で嘘をつきながら俺は横浜の美味い店を探す。やっぱハンバーグか。量優先。
 イヤホンをしていない耳をガーッと全身に響くやかましい音が襲う。トンネルに入る。真っ黒な窓に俺と雷市が映っている。Tシャツで、手ぶらで、イヤホンを片耳ずつ分け合っている俺ら。
 それがパッと消えたとき窓からは眩しい光が射し込んで、雷市の口がカパッと開く。感動をそのまま、雷市は全身で表す。目の前の急な晴れ空、青空、そして青い海。
「真田先輩、海! 海!」
 今時小学生だってそこまではしゃがねぇだろってくらい雷市ははしゃぐ。オバサン集団、眉をひそめる。でも雷市が窓に齧り付いている様が微笑ましくなったらしくて、あらあら可愛いわねぇっていう空気が広がる。俺はこれ以上そんなサービスカットを見せてやれない。
 後ろから覆い被さるように窓に手をつく。
「こっちは晴れてたんだな」
「すっげ、涼しそう、気持ちよさそう」
「下りるか、雷市」
 雷市の顔がまたパッと輝いて、今度は大きく一つだけ頷く。
 駅は小さい。海岸のすぐ横だ。海岸っつっても海と陸地の境ってだけで白い砂浜もない。コンクリートの防波堤が線路沿いにずっと続き、海から頭を出しているのはテトラポッド。以上。なのに雷市のテンションの上がりようがヤバイ。いつもなら絶対見向きもしない風景なのに俺までテンションが上がっている。
 案の定雷市は堤防の上を走り、
「おい、雷市!」
 俺が呼べば立ち止まるが、その場で足踏み。俺が追いつくとまた走り出す。何だこれ、犬の散歩か。
 雷市はフジツボだらけの階段を駆け下り、テトラポッドの上に飛び降りる。正直ハラハラして見てらんない感じだけど、雷市の身体能力だとまあコケるってことはない。万が一ここで雷市が怪我してみろ、俺は監督から首括れって迫られるだろう。まあ、その前に自分で首括るだろうけどさ。
「雷市、あんまりはしゃぐなよ、監督に…」
 言いかけたが遅かった。雷市はもうテトラポッドの先端から海に飛び込んでいた。
 水飛沫。
 そして静寂。
「らいっ……!」
「つ……っめてー!」
 海に響く野卑な笑い声。俺は雷市を追いかけて慌てて飛び込もうとした格好のまま、固まる。とにかく雷市の顔は浮いている。
 俺は息を整えて、さっき雷市が飛び込んだ場所まで行き、しゃがみ込んだ。
「おーい、雷市、準備運動してねーだろ」
「さっきさんざん練習したし! 平気っス!」
「ま、そーだけどな。寒くねーか?」
「全然!」
 雷市は海の中から犬かき状態で俺と喋る。
「服着たままで平気な訳?」
「はい?」
 平気なのか…。でもまあ海から上がった時に温かい服が必要になる。でないと雷市が風邪を引く。
 でも俺の心配は逆の意味で杞憂で、太陽がさっと陰り、やな予感がする前にゲリラ豪雨第二弾。女心と秋の空って天気予報でも言ってくれなきゃ困る。
「真田先輩! 真田先輩!」
 犬かきの雷市は急に生命の危険を感じたのか必死でテトラポッドに近づく。俺はフジツボとか海草とかでトゲトゲしたりヌメヌメしたりしているテトラポッドの中を下り、海中の雷市に手を伸ばして引き上げる。
 つもりだった。
 こんな、海水浴場でもない場所で。人もいない海岸で。
 他に誰もいない。雷市は俺だけを見ている。俺だけを信じている。
 掴んだ手に自分の命を預けている。
 テトラポッドの上で雷市は無駄なのにTシャツを絞る。靴も無理矢理絞る。俺はその背中をじっと見下ろす。蛹の中身がグチャグチャなように、まだ未成熟な雷市の身体。掌のタコは知っている。恐ろしい程に硬い掌と真逆の肉体。これからこいつは強くなる。もっともっと強くなる。肉体が成熟し、メンタルもおっつけ強くなるだろう。もうあの時の最後の打席みたいなことは起きない――起こさせない。
 野球とコイツのことは分かる。
 野球を挟んだ俺とコイツのことは分かる。
 でもいまどうしたって雨に打たれて震えている十五歳の肉体と今の俺を結びつけるものとその先の未来を描くことはできなかった。
 喰うものも、音楽も、くぐる玄関も、寝る布団も、俺たちの人生で共有されるものは一つもない。野球だけだ。野球しかない。それ以外の未来はない。
「雷市」
 靴紐を結び直す雷市の前にしゃがみ込み、俺は雷市と目を合わせる。
「一緒に飛び込もうって言ったら、お前、どうする?」
 雷市は目を真ん丸に見開いて、口はにっこり笑う形だけどどうすればいいか分からず閉じている。アホだもんな。俺の言ったことが分からなかったかもな。
「雷市」
 俺は雷市の手を握る。硬い掌を俺の手で包み込む。
「一緒に死のうか」
「い……、今?」
「今」
 雷市の問いがおかしかった。今じゃなきゃいーのかよ。
 俺が立ち上がると雷市も立ち上がる。靴紐は片方解けたままだ。魚に喰われるかな。湘南のゴミの一つになって社会的問題の一部として新聞に写真が掲載されるだろうか。親指の所が薄くなり始めた靴。
 風に毛羽立つ海は不気味な音を立てる。波が波を呑む。雨が強くなり、水面は灰色から白くなる。
 雷市が口をパクパク動かした。
「冗談だ」
 俺は笑って雷市の手を引き海に飛び込む。
 ケータイ、iPod、多分オシャカだ。つか、ポケットから飛び出していったか、今。どうでもいい。
 雷市が固く俺の手を握っている。
 俺の手を掴んで、必死に、不格好に泳いでいる。
 どこに行くんだ雷市。
 ああ、海の底か。

 雷市は勿論、俺も生存本能には逆らえなかった。テトラポッドにしがみついてゲーゲーと海水を吐き、這うようにして防波堤まで上った。階段を上りきったところで、雷市は気を失う。濡れた冷たいコンクリートの上で雷市の気絶した顔を見下ろし傷の残る頬を撫でていると、まあこれでもいいかと思った。
 あの瞬間、雷市は自分でテトラポッドを蹴ったのだ。
 激アツじゃん。
 雷市を負ぶって駅に向かう。足が重い。やべー。また左足か。左足なのか。駅舎の屋根の下に入る頃には完全に足を引き摺ってて、こりゃもう帰った時監督に首絞められてもしょうがない。ベンチにぐったり横になってる雷市を見てもな。もう色々と。
 気づくと俺はいつの間にか上半身裸でベンチに寝てて、絞ったTシャツが肩の上にのっている。雷市は起きている。
「サ、サナーダ先輩」
 カハ……、と弱い笑い声が喉から出た。
「雷市ー」
 薄暗い駅舎の待合室で、俺は雷市にもたれかかる。
「マジ疲れちゃった、俺」
「んあ、その、」
 ゴメンナサイ…と小さな声が耳をくすぐる。
「…何で?」
「その、一緒に、シンジュー……」
 心中なんて言葉、知ってたのか、雷市。
 俺と心中するつもりだったのかよ。
 どうしても生きたくて、野球以外のこと全部生きづらいこの世界に帰ってきたこと、俺を無理矢理連れ戻したこと、謝ってんのかよ。俺は別に生きづらくねーけど、お前との未来が描けない時点で詰んでるからまあ似てる。
 クカカカ、と雷市の笑い声を真似して俺は笑う。
「腹減らないか、雷市」
 返事は我慢、頷きそうになるのも我慢、でも腹が鳴るのは我慢できない。
「ハンバーグと豚足、どっちがいい?」
「ハ……ハ、ハハ、ハンバーグ!」
「じゃあ俺の我が儘聞いて」
 俺は雷市に金を渡して――お札なんかグショグショよ――窓口で横浜までの切符を買わせる。
「買ってきました!」
「じゃあ次な」
「はい!」
「俺ずぶ濡れで力が出ないわー」
「う……」
「だからチューして」
「う、うへっ?」
「エネルギー補充させてくれよー」
 ベンチに横になった俺の上、雷市がぶるぶる震えながら覆い被さる。瞼も眉間も唇も全部震えている。息も止めてるから顔が真っ赤だ。
「ワリ。冗談」
「えっ」
 目を開けた瞬間を狙って雷市の首をホールドオン。キスを奪うのは簡単だった。
 ただ、計算外だったのは。
「あー、元気出た」
 本気で元気が出たことだ。ついでに勃った。
 横浜に着いたらラブホ…、駅前にあるだろ多分。高校生だとバレずに入れるだろうか。いや、金が足りねぇんじゃねえか? これから雷市とハンバーグ喰って、東京まで帰る金…。
 やべ。もう考えるのめんどくせ。
「雷市」
 やっぱ俺と死のう。