No.30 the eternal



 猫ががりがりと窓を引っ掻くので薄目を開けて時計を見た。いつもの慣れた仕草のはずが、力の入らない指から目覚まし時計は滑り落ちて私のこめかみを掠める。猫が一声鳴いた。私は首を捻った。遠い痛み。間近に見える文字盤に焦点を合わせる。午前十時を前に秒針は規則正しく時を刻んでいた。
 熱は何とか下がったようだが、平熱の低い身には微熱の三十七度二分もつらい。まだ頭がぼんやりする。節々の痛みは風邪症状のそれと言うより、丸二日ベッドに横になっていたせいだろう。顔を洗い、脂じみた髪をタオルで拭うとようやく新鮮な空気が触れた。寒い。でも清浄だ。牛乳を電子レンジで温める間、キッチンの小さな窓を開けて清涼な空気を吸い込む。肺から埃っぽい空気を全て吐き出すように。猫は私の足とキッチンテーブルの脚の間を交互にくるくる回り続ける。描く模様はインフィニティ。私の鼻から息が漏れた。メロディが形作られようとしていた。電子レンジがチン!と高い音を鳴らし、夢心地は中断される。
 猫はようやくありついた餌に無口だ。私もパン粥をちびちび食べながら無言の中に身を浸している。普段であれば気になって仕方がない隣や階下の生活音がまったく聞こえなかった。寝ている間にこのマンションの他、焦土と化したのでは。カーテンを開けたがいつもの街並みでしかない。いいや……、私は暗くなってからしかこの部屋には帰って来ない。だから平日昼間のこの景色は知らない街だ。見知らぬ通りを赤いバイクがトトトト…、と軽い音を立てて走る。マンションの前に停まった。
 ふと頭に、カタン、と硬質な音が響いた。郵便受けの隙間から郵便配達夫の手袋を嵌めた白い手が見えた。
 不格好に上着を羽織り階下へ降りる。細長い郵便受けには三日分の新聞と押し潰されたガスの利用明細、一枚のポストカードが入っていた。私はそれを胸に抱いて速足で四階の部屋に戻った。差出人の名前は見なかった。けれども見慣れない切手がちらっと見えた。胸が高鳴る。玄関のドアを閉めて背中をもたれ、深い息を吐いた。ドン、ドン、と心臓は重厚な音を鳴らす。こんなにドキドキして、死んでしまうのではないだろうか、苦笑しながら心配するほど。
 猫がまた窓をカリカリと掻く。くもりガラスの波模様の上を滑る爪は不快な音を立てず軽やかだ。細く窓を開けてやった。網戸に鼻を押し付けるようにして猫は暖かくなり始めた陽を浴びる。髭や長く伸びた眉が風に揺れる。
 崩した字を書かない、それは私が小・中とピアノを教わった教師からの葉書で、末尾には「ウィーンより」と記されていた。私は今しがた風邪薬を飲んだ空のパッケージと水の残ったコップをテーブルの端に追いやり、肘をついて目の前の写真に見入った。
 書かれていたのはウィーン旅行とは関係ない、ほとんどが先日のコンサートに関する謝辞だった。私は優秀な教え子ではなかったが、後の世代は見事期待に応えた。出藍の誉れを体現したピアニストは先日都内でコンサートを開き、私はそのチケットをピアノ教師を介して手に入れたのだった。ついでに言えば、そのコンサート会場で風邪をもらった。
 正直なところ、私は弟弟子であるそのピアニストに興味があったのではなかった。だからと言ってチケットノルマに協力した訳でもない。あの人が教えた手に興味があった。
 自分の掌を広げて、見る。私の手。短い小指はピアノの演奏に決して有利ではなかった。これでもそれなりに肉体の成長というものを経て大きくなった掌だけど、あの日、私の手に覆いかぶさるようにピアノの鍵盤を叩いた長い指とは、私が川へ流してしまったチェルニーの三十番の楽譜を拾い上げた手とはちっとも重ならない。けれどもあのポスターよ、弟弟子よ、これは現実か。彼の指の長く真っ直ぐな様は顔もキャッチコピーもかき消した。「まるで記憶のとおりじゃないか」。私は口に出して呟いていた。
 永遠に終わらないかのような三十番を憎んで楽譜を川に流した日、後悔で泣きじゃくる私にかわって濡れた楽譜を拾い上げてくれたピアノ教師の手の影は、私の中で唯一の不変だ。美化さえない。今でもあの手の影を私は恐怖とともに思い出し、その手がそっと頭の上に載せられるだけだったことに驚きを覚える。
 風に吹かれ、猫が首を振る。髭が揺れる。首が、髭の先が描く小さな軌跡。小さな無限模様。鼻から漏れたのは三十番のメロディ。十代の少年にとって永遠に終わらない音楽だった。私は目を細める。この葉書を書くピアノ教師の手が見えるだろうか。いいや、私には齢を取ったあの人の手が想像できない。チケットを手渡された時でさえ、革手袋に覆われていた彼の手を。私は気恥しくなって目を逸らした。そして彼の目を見た。眼鏡の奥の目が今も笑わず、表情が厳しいことに安堵さえした。それなのに葉書の言葉はひどく優しい。あの弟弟子を慈しむ言葉と、コンサートの成功への感謝と。
「また会いたいだなんて」
 文字を指でなぞり、深く項垂れる。
「嘘でしょう、先生」
 猫が窓辺から飛び降りて私の足を掻いた。私が無視をするとテーブルによじ登り、項垂れた私の顎の下に小さな頭をぐいぐいと押しつけた。やめろよチェルニー、と呟いたが猫は聞く耳を持たない。私は猫に頬擦りをする。

     *

 ポストカードの写真はウィーンのシュテファン大聖堂で、モーツァルトの結婚式と葬式が営まれた寺院なのだそうだ。ピアノ教師の老いた手がそれを指差した。私はその手を見つめていることができずに、そうだったんですか、と顔を上げ眼鏡の奥で細められた目と視線を合わせた。



2017.2.21