NO.30



 チェルニーを初めて弾いたのがいつだったか覚えていない。ピアノを始めたのが十歳の頃だったから、おそらく同じ年のことだろう。ガタン、と足元が揺れる。目を瞑ったまま思い出すのは、あの、小学四年の夏休み最後の日だ。自分はピアノのレッスンをサボった。教室に行かなかった。自分がしたのは、ほとんど書いていなかった夏休みの絵日記帳を川に浸けて駄目にすることだった。不慮の事故を装って、翌日の教師の糾弾を免れようという浅薄な謀である。しかし、流されまいと川の中流近くまで日記帳を追いかけた自分は、日記帳どころか、頭のてっぺんまで、楽譜の入ったリュックさえもずぶ濡れにして堤防の道を帰ることとなった。堤防は雑草だらけで、濡れた肌を鋭い青草がちくちくと刺した。夕陽が、川の果てに沈もうとしていた。時刻はもう午後七時をまわっていた。そう、今の時刻だ。あの日、十歳の自分の目の前を、黒い、背の高い影が遮った。
 以降、自分はレッスンを一度も休まず、中学卒業までの六年間ピアノを弾き続けたが、それは決して、あの日迎えにきたピアノ教師の愛情に打たれたとか、音楽の素晴らしさに目覚めたとかではなくて、あの八月三十一日の恐怖が忘れられなかったからだろう。レッスンを休むと、今度こそ死が波のように自分を攫っていってしまうような恐怖。それだけだ。チェルニーには恨みこそあれ、好きではない。今でも時々、左手の薬指と小指が痙攣するような気がする。今年、自分は三十歳になった。三十。嫌いな数字だ。
 四ッ谷駅で電車を降りる。街明かりに照らされて、ちらほらと桜の白い花が浮き上がっている。地上という地上のどこもかしこもアスファルトで塗り固めたというのに、ここはやはり桜の国なのだろう。先日、読んだ漫画のタイトルがそんなものであったような気がする。そうだ、あの中にもチェルニーは登場した。少女が桜の花びらのようにビリビリと引き裂いたのはチェルニーの楽譜だった。しかし物語の中で彼女は、好きな曲だと言っていたっけ。そんな人間もいるのだろうか。いるのかもしれない。道を行く人々の方向が次第に定まり始める。皆、いそいそと、(時間を気にして慌てている者もいるようだけど、ほら、一人走り出した)ホールに足を向けている。自分は歩く方角を間違っているのかもしれない。今すぐコンビニに飛び込み、安い雑酒缶片手に夜桜を見に行くべきなのかもしれない。しかしホールはもう、すぐ目の前だった。
 会場は混雑していた。自分の親くらいの年代の人間が、なんだか善人そうな顔で手元のプログラムを覗き込んでいる。自分はなんとか席に到着し、ブザーが鳴り、幕が開くのを待つが、座席に腰かけた瞬間から一つの誘惑が頭をもたげていた。
 ブザーの音にホールの空気が張り詰める。するすると幕が開く。明かりの灯った舞台。登場する指揮者。そして、序曲の始まりと共に睡魔がこの身体を支配した。

 ぼくは三十番を弾いている。母は一月前から家にやってきたアプライトに頬ずりせんばかりで、少女時代の思い出話をぼくに話す。でもぼくは母が子供だったはずがないから、それは嘘だろうと思う。
 ピアノの先生は、あの日の優しさが嘘のようで、厳しい。ぼくは、今までもこの先生が優しいと思ったことはなかったけど、でも悪人じゃないことは知っている。先生の教室の庭には何匹も猫がいる。先生は猫に餌をやる。猫を、時々レッスン室に入れる。ぼくも、レッスンが終わったら猫に触っていい。ぼくは先生の飼っている猫の一匹が気に入っている。格好良い黒猫を、ぼくの家でも飼いたい。
 ぼくが三十番を弾いていると、先生がゆっくり歩き出す。そしてバルコニーの窓辺で立ち止まり、窓ガラスにもたれかかる。先生の足元には黒猫がいる。ガラス窓の向こうから、先生の真似をしてピアノを聴いている。
 長い長い楽譜に思えた。五線はどこまでも伸びて、いつまでも終わらないみたいだった。けど、ぼくは初めて失敗せずに三十番を弾いた。
 先生が手を叩いた。拍手をしているのだと、ぼくはやっと気づいた。猫が窓の隙間から入り込んで、ぼくの足元に擦り寄った。
 桜が咲いている。春の風が吹いてくる。先生の薄くなりかけた髪の毛が揺れる。

 音楽が耳を包み込んでいる。身体の、皮膚に近い細胞からふるふると細かに震えだす。交響曲だ。自分は目を開けた。ニ長調。自分は、何かを、思い出すかのように、知った。
 何を知ったのか。音楽の素晴らしさか。恩師の優しさか。チェルニーをだろうか。
 それは言葉にならない何かだ。ピアノも諦め、三十を迎えてうだつも上がらず、コンサートで居眠りするような男に語っていい言葉などない。だから、自分はただ、耳をすまし。ただ、耳をすまし。息を詰め。
 それを聴いたのだ。
 あの人が春光を背に聴いたように。あの猫がガラス越しに聴いたように。何かが咲き誇っている。何かが咲き誇っている。それを、聴いたのだ。
 聾するような拍手がホールに響いた。天井や壁に反響してそれは満場の席を圧していた。その中で指揮者が礼をする。幕がするすると下りる。やがて潮の引くように拍手は静まり、コンサートの魔法を解くように客席灯が灯る。人々の間を日常の声音や雰囲気が流れ出し、自分は急にさっきまでのものが失われたのを知った。
 もう戻らぬものを感じながら、自分も人波に任せるように会場を出る。急に身体が冷え込み、手にかけていた上着を羽織る。タクシーが赤いテールランプを灯してホールの前に列を作っているが、自分はそれに背を向けて、来た道のとおり四ッ谷駅を目指す。
 まるで現実的な鉄の音を響かせて電車が入る。熱気を引き摺った観客がぞろぞろと乗り込むのを眺めながら、自分はベンチに座り込む。手の中には熱いコーヒーの缶が一つ。電車は風を巻き上げながら発車し、どこからか舞い込んだ桜の花びらが白熱灯に一瞬照らされ、闇に飲まれる。風に乗って何かが聞こえてくる。自分はそれを何なのか、はっきりと聞き取ろうとはしない。さっきの音楽の切れ端かもしれない。夜桜見物の騒ぎが風に千切り飛ばされて来たものとは思わない。目の端を掠めるものがる。胸の中を時折、熱く飛び交うものがある。しかし、自分はそれをきちんと聞き、見、確かめ、名前をつけようとは思わなかった。
 でも、いいのだ。三十を迎えてもうだつが上がらず、コンサートに興奮し、その余韻に浸ったまま、家に帰りたくない気持ちを持て余しているような男に、語っていい言葉など、ありはしないのだから。
 コーヒーを口に含む。あたたかな息が鼻から漏れる。何か名前が頭に閃いた。チェルニーかもしれない。



2008年頃。