真冬の蔓を抱く掌を




 目蓋を閉じて眼球の底に見えるより暗い闇の中で己の姿を忘れる恐怖からか眠りの浅い二月の夜がただ漫然と流れてゆく。僕はベッドの上で寝返りを打ち、靴を床に落とす。それが耳に届くまでの間、ベッドの端で我が獲物である靴が主の元を離れるのを躊躇うようにゆらゆら揺れて夜と不眠の僕の沈黙に耐えきれず落ちるまでのほんの数秒。躊躇いはベッドの上の凍えた空気をわずかに揺らめかせ春の小川を流れる清水のやさしい太陽の反射、小鳥が飛び立つ際に残した可愛らしい波紋のように僕を包んで、ほんの数秒僕は眠り、長い長い夢を見たのだ。
 不眠が始まった夜は三年より前であることに間違いはないが、一つメルクマールとなる夜は確かに三年前かそれより少し後のこと。僕はよく覚えている。灰色じみたシーツとシーツの隙間、どうしたって狭い男二人の身体を載せてベッドは辛抱強く沈黙していた。何度か会話の端緒になるものがあり、何度かの溜息があり、結局言葉は発せられなかった。僕らが必要としたのは言葉ではなくキスという形で表現された。ずしんと重い肉体が僕を押し潰し、僕は長く余韻を引き摺る快感の中で息を止めるようなキスを受けた。唇を塞ぐ圧倒的な存在。ベッドの中で僕らは笑いをこぼさず、しかし弱音一つ吐くことなく諦めることなく、ただ生きることだけを考えていた。それでもいつどの瞬間が最後となってしまうか分からないから、その夜は存在したのだ。大理石に深く彫り込まれ地中深くに埋めて誰にも知られない、だが確かに存在する秘密を、真実を二人の間にだけ生み出した。あれから千夜一夜がとうに過ぎて、二度と口に出されることのない真実。僕が覚えている真実。それは今でも君の中にある真実と同じものだろうか。
 全ての眠りと全ての夜は、メルクマールとなったあの夜に繋がり、しかし永遠に辿り着くことがない。欲しては飢え乾く果てしない苦行こそが僕にとっての睡眠だ。靴がベッドの縁から滑り落ちた瞬間、茫漠たる闇に僕の意識は投げ出されたが、僕はそれに気づかない。闇と眠りの境界は分かたれず、そこに挟まれた僕の身体もまた形を成さず、こ、れ、で、死、ぬ、だ、ろ、う、と溝の欠けたレコードのような飛び飛びの思考。空白を埋める圧倒的な恐怖。死。無。僕は何が惜しく何が悔しいのか。恐怖に捕らわれて声のない大声の悲鳴を上げようとした。だが僕にはまだ縋ることのできる希望が、縋りたいと思える光があり、光は獣の形をとって生命にうち輝き僕の肉体を鋼鉄の爪で押さえ込んだ。
 光の獣は深い地の底から来たりて、真実をもち照射する。闇の底で僕は僕の肉体を知る。獣の見つめる肉体、獣のかぐ匂い、爪の食い込み与える痛みこそ僕の肉体だ。爪は、そして傷だらけで硬くなった足の裏は僕の口を塞いでいた。僕はもう悲鳴を上げなかった。僕の足を押さえつけていた。僕はエスメラルダ式血凍道といつもの科白を口にすることも獣の血を凍らせることもできなかった。それは全く必要がなかった訳ではない。生きようと抗い、毛むくじゃらの足に弱々しいながらも爪を立てることが互いの尊厳のために必要だったかもしれない。これから捕食しようとする者の、これから贄になろうとする者の儀式としてそれは欲せられた。
 だができなかった。僕は全てを投げ出し獣の爪と牙を受け入れていた。太い刃のような牙が裂くと、僕は自分の腹の在処を知った。牙が腑分けし舌が血を舐め啜る想像を絶する激痛の中で救済を感じていた。これは清らかな行為だった。絶対神聖な儀式だった。彼は僕を生きながらに殺し生きながらにして己のものとするのだ。彼の口が僕の裂かれた腹に突っ込まれ、夕食がわりのワインの匂いが残る五臓を引きずり出す。彼は丁寧に腑分けをして僕を食べる。彼は強い。暴力的なまでに。彼は紳士だ。女が泣いて跪きたくなるほどに。僕は女ではないから涙さえ堪えて自分が彼の中に消滅しきる瞬間を待った。歓喜の瞬間を。歓喜の終わる瞬間を。
 長い長い夢に終止符を打ったのは靴が床の上に落ちる音だった。ベッドの下に敷かれたラグはその音をほとんど吸収した。重たい振動が砂漠に一瞬現れては消える風紋のように鼓膜を震わせ消えた。僕は目蓋を開き、午前中にヴェデッドが取り替えてくれた白いシーツの海を見た。部屋は存外明るくて、夜と、夜の明かりと、それを反射する霧のぼんやりとした明かり、それから消し忘れていたバスルームの遠い明かりで、突然主の目覚めた夜の中で気まずそうに沈黙する家具やランプの輪郭を浮かび上がらせていた。僕は女に電話をかけた。
 女はちょうど泣いていた。僕は女を慰める言葉をかけた。ゆっくりと発音し、ゆっくりと話しかける。何を言っているのかは自分でも分からない。多分、君は悪くないとか、君みたいに綺麗な女の子をとか。既に反射でさえない、呼吸のような言葉は長い夢を彷徨っていた僕の精神を現実の二月の夜に引き戻し、爪先でラグの上を撫でる、靴を探りあてる。それを履いて玄関に向かい、まだ電話は切らない。ほとんど習性のままモバイルを耳と肩の間に挟んで車のキーを取り上げ、外へ出る。
 夜のヘルサレムズ・ロットは所々に紐育の面影を浮かび上がらせ、窓の上を流れ去ってゆく。残光の帯の伸びる先、運良く形をそのまま留めた古いビルをリフォームした小洒落たアパートが建っている。三階の角部屋にはいつもピンク色のネオンサインが光っている。メッセージはこうだ。あなたは善良で愛にあふれた人間よ。僕が遠い昔に見ることをやめた夢がこんな所で死なずに残っているなんて。僕は呼び鈴を押す。ドアの向こうで女が鍵を開ける。女は自分が電話口で泣いたことを恥じるようにドアから、僕から離れる。僕は笑顔を見せない。大きく踏み込んで彼女の身体を抱きしめ、こう囁く。
「もう、いいんだ」
 一体、何が。しかし問題は解決する。彼女の目には再び涙が盛り上がりしがみつく手の力が強くなる。彼女は後ろ向きのまま、僕のリードで寝室のベッドの上まで辿り着き、踊るように倒れ込んだ。柔らかなパジャマを引き剥がし、ブラジャーの上から胸を掴んで僕はようやく表情を崩す。女の手が伸びて僕の頬を撫でて、こう言う。
「ごめんなさい、あなたまで悲しませて」
「僕こそ、ごめん」
 女は嫌いじゃない。女とのセックスも嫌いだなんて一度も言ったことはない。どうしてこの肉体はこんなに柔らかいんだろう。腹を切り裂いて腑分けした内蔵を並べるまでもなくやさしく温かい血と肉が詰め込まれているのが分かる。それからセックスの後の男を抱き留め落ち着かせるひんやりした脂肪。僕は自分が女だったら、女の身体だったらなんて思ったことは一度もない。羨ましくはない。なのに八つ当たりのように密かに彼女を傷つけている。上の空のセックスをする。彼女が気づかないように後背位で。オーガズムのうち何回が本物か分からないけど、こちらとしては都合三回、相手は二度の絶頂があって、彼女は少し眠る。僕は眠らずベッドの上に座っている。
 離れた角部屋の窓で光るピンク色のネオンサインがここまでメッセージを届けにくる。遠い過去の夢はもう僕を揺さぶらない。それなのに少し寂しい。このベッドには隙間がありすぎる。それに清潔すぎて柔らかすぎる。僕が踞り膝を抱いていると女が浅い眠りから目覚める。僕と彼女は夜が明ける前までベッドの上で他愛もないおしゃべりを続ける。何を喋っているのかよく分からない。散漫な言葉でシーツの上を埋め尽くしているだけだ。でもそれが僕の心を寂しさから背けさせ現実に繋ぎ止める。彼女はくだらないおしゃべりが楽しいふりをする。ヘルサレムズ・ロット・ブロードウェイで新しく踊り始めた女優の話に食いつく。知ってるの?本当に?彼女中学のクラスメートよ。自分がしがない事務員であることを彼女は嘆く。そんなことはないさ。だって君が扱う情報はビヨンドとこちらがわの均衡に大きく作用するものばかりじゃないか。だって私は世界を救えないもの。
「そんなことはない」
 俯き加減の顔にかかる髪を払い、キスを落として僕は言う。
「君の手で救われる人間もいるさ」
「例えば?」
「僕だ」
 彼女の手は強くやさしく僕の頬を挟み目の下に隈の浮いたそれでもそこそこ魅力的な笑顔をしっかり見せる。窓の外を流れる霧の形が分かるほど白み始め、彼女はコーヒーを淹れる。それを腹に収めて僕は彼女のアパートを出る。バックミラーに映るアパートの三階は夜明けとともに愛が姿を消し、二月の寒い、週日の朝が始まる。僕は車をそのまま「会社」へ走らせる。途中でシャワーを浴びればよかったと気づく。その時はもうドアの前に立っている。僕はドアの向こうに思いを巡らせる。眠りから目覚めた植物たちの爽やかな沈黙。濾過した水が如雨露の先から降る。あるいは霧吹きから、一瞬の小さな虹を生みつつ飛び出し緑の葉の上に露を作る。おはようと彼らの主に挨拶をするため。僕は襟を摘まんで自分の匂いをかぎ、もう一度袖や肩口に鼻を押しつけてかいだ。それから百八十度爪先を回転させ自分の部屋に戻る。
 ヴェデッドの出勤まではまだ間があり、僕はバスタブに湯を張る。泡の中に頭まで潜ってそれを全部シャワーで洗い流し、大して伸びてもいなかった髭をあたる。その間に大きな影がゆっくりと部屋を横切る。ギガ・ギガフトマシフ氏の影だ。彼が通り過ぎた後もう一度鏡で顔を見た。額から目元にかけて薄ら陰っているのは窓をよぎる巨影のせいじゃないことがそれではっきりするのだが今更気にすることはない。新聞を読む。出勤したヴェデッドが今日の予定には組み込まれていなかった朝食の用意を慌てて整えてくれる――「心配しないでくれ、ミセス・ヴェデッド。薬を飲む前に腹に何か入れておこうと思ってさ。冷蔵庫の中のものより、君の作ってくれた温かいものがいいと思ってさ」――。
 いざ、「会社」へ出勤。引きも切らずここは世界中の子供がなくしたレゴブロックに事件と悪徳の名前を書いて放り込んだような街だから、「会社」に到着する前にモバイルが僕を呼ぶ。車は赤信号の角を強引に曲がり現場へ直行。もう五ブロック先だ。既に銃声と狂歓めいた悲鳴が届く。やれやれ、世に平穏あれ。この空の上におわす誰かの望むまま。
 各自仕事をこなすのは手慣れたものだ。僕らに隊伍なはくドイツ軍人のように整った敬礼もガブリエル率いる兵隊の行進も見られないが各々がプロの仕事をこなし、解決、集合、解散。そしてまたどこかで爆音と土煙が上がり集合、散開、仕事の時間。このてきぱきとしたチームワークはスイスの時計職人渾身の作のように芸術的に噛み合う。天のどこかから、分厚い霧とタコ足の妨害も越えてご覧になる誰かさんもきっと満足なさっているだろう。アーメン。
 忙しさは昨夜の不眠や膝を抱えて感じた寂しさを紛らわせてくれる。晴れやかにとまではいかなくても、昔、ただ人間の世界でハイウェイをぶっ飛ばした時、曇天だけど爽やかな風の吹いていた秋のこととか、彼と一緒にキオスクで紐育ガイドブックを買った日の気持ちを蘇らせてくれる。彼が隣にいる。拳を振るう、その熱が頬の上に残った凍気を溶かす。僕は火傷に遭ったかのように目を細め口をいっぱいに開いて彼の名を呼ぶ。
「やっちまえ、クラウス!」
 万事解決。
 集合。
 解散。
 僕は隣の巨躯の背中を覗き込む。煤だらけだ。掌でパンパンと大きな音を立てて叩く。
「すまない」
「さあ、早く帰ろう。今見た術式を書き留めて。そしたらシャワーでも浴びようよ」
 そしてお茶を一杯。お気に入りの鉢植えの葉を撫でてから眠ればいいさ。誰も君の束の間の安息を邪魔しはしない。邪魔はさせないから。僕がキーボードを叩いている間、彼はソファから動かなかった。膝の上で手を組んで考えている。今日は何を考えているんだろう。まあ分かるよ。新しい歯車が入ってきた。それはそれで機能してるけど不安もあるんだろう。彼の頑丈な双肩が担っているのはアトラスの担ぐそれだ。
「シャワーを浴びなよ」
 彼のやさしい執事が淹れてくれた香り高いお茶は仕事でややくさくさした僕の心を落ち着けてくれたが、彼はそうはいかない。担いだものを下ろす訳にいかない。
「君が倒れちゃ元も子もない」
「スティーブン」
 いつの間にカップのお茶は湯気を出すのをやめていただろう。いつの間に窓の外は濃い闇に覆われていたのだろう。モニタの青白い光が僕の顔を照らし出す。その照り返しに彼の顔も青白く浮かび上がる。しかし眸は燃える。太陽の如き炎を開け続けている。
「僕らも休もう」
 もうとっくに終わらせてもよかった仕事をショートカットキーの上書きで終了。しばらく考え込んだPCが小さな音を立てて回転を止め、やや遅れてモニタの光が落ちた。彼はようやくシャワーを浴びた。僕は彼が丹精込めて育てた植物に囲まれ冷たいお茶を飲む。やさしく清らかなものが僕の口から入り喉を滑り落ち腹の底に泉を作る。そこにクラウスが種を一つ入れてくれたら。今度は善良に育つだろう。愛が咲くだろう。でも僕は自ら嘔吐してその種を吐き捨てても護りたいものがある。腹の底に泉のあったかもしれない夢。彼に育まれる蔓の可能性。僕はそれだけで十分だった。君の存在はあらゆる僕の孤独を報い、僕の犯す全ての罪に僕を立ち向かわせる。恐怖はある。だが立ち向かうだろう。打ち克つだろう。君を知っているから。君が僕を知っているから。それが僕のほんの一部分だとしても、君の中に僕が一区画持っていてちゃんとネームプレートが掛けられているのを知っているから。
 シャワーを、と勧められる。僕はそれを断らない。彼の使った後のシャワーを浴び、彼が立ったのと同じ場所に裸足で、裸で佇む。冷たい水を浴びながら僕はひそやかな罪悪に身を浸す。神様罰してください、俺の快楽を。これが夢の中の痛みと手を繋げば僕は永遠にクラウスを忘れないだろう。生きながら引き裂かれようと細切れにされようと、指先の細胞一つ一つまでが彼を想い、消滅の瞬間まで想い続けるだろう。それはひどい興奮だった。冷たいタイルに頬を押しつけて僕は笑う。
 シャツの煤を払って身に纏い青い香りの奥へと進むと緑に囲まれたカウチの上、彼は短い睡眠をとっている。短くて深い眠りだ。僕が近づいても目覚めない。僕を信頼してくれているのか。それがひどく嬉しくて枕元にしゃがみこみ、寝顔を覗く。寝顔まで厳つい。笑顔になれば子供が泣くくらいだ。それなのに時々表れては僕を驚かせる純朴はどこから来るんだろうか。何年君とつるんでいるのに、僕も君を知らない。
 真夜中に彼は目覚める。寝室まで歩くため。ベッドの上で眠るため。その前に、夕方の水やりが出来なかった分、小さな鉢植えに霧吹きでそっと雨を降らせるために。彼は目蓋を開く。すぐに僕を見る。僕が笑顔を浮かべて立ち上がろうとすると厚い掌がそれを追いかける。傷の上を無骨な指が撫で、掌はしっかり頬に押しつけられた。メルクマールとなったあの夜、シーツの隙間から差し伸べられ、僕を抱いたあの瞬間とまるでそっくりおんなじに。
「スティーブン」
 彼はまた僕の名前を呼んだ。僕は彼の中に存在している。小さな一角を持っている。ネームプレートの下に、君の中の僕はどんなメッセージを出しているんだろう。きっと何も書かれていないはずだ。それなのに君はぼくの頬をぎこちなく撫でる。僕はそっと掌を重ね、彼の掌を頬と手の間に挟み込む。
「ありがとう、クラウス」
 今度こそ僕は立ち上がった。彼が見送る前に「会社」を出た。手も足も自動的に動いた。僕の身体には習慣が染みついている。玄関を開けて車のキーを放り、それから僕の身体はずるずると壁にもたれて脱力する。両足はもう僕を支えず、尻はどすんと廊下の床に落ちる。僕の両手は頬を包み呻き声と幸福の吐息が入り交じって唇の隙間から漏れる。今なら眠れる。僕は今夜ぐっすり眠るだろう。翌朝目覚めなくったって知るもんか。今日はベッドで寝たくない。床の上で靴を履いたまま眠りたい。頬の熱が残るこの場所は僕が何も恐れることのない唯一の場所だ。世界中の何事全てに恐れ戦いてもたった一つ、唯一の心配だけが排除された場所。安らかな息を約束され僕は目蓋を閉じる。闇は薄れ灰色のシーツの間に、僕はクラウスに抱かれたあの夜に帰ってくる。