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最初書きたかったのは電車。そしてナツさんの妄想ジャンプに影響され、
書いたものの力尽きた自分に喝! 尻切れ蜻蛉で本当に申し訳ない
風が吹いて、頬を横殴りに吹きつけた雨に思わず目をつぶる。べたべたとした湿気に
不快感が増したが、見上げれば空の所々は明るく、水色の空が覗いている。通りには夕
食の匂いが漂うが、日はまだまだ高い。
空の水色を目にした途端、セナの気分は空へ抜けた。雨はもう止みそうな気配だった。
セナは傘代わりにしていた鞄を小脇に抱え、濡れたアスファルトを蹴った。
改札を抜けた瞬間、轟音が走り去った。間に合わなかったか。雨に足をとられた。も
う一本待たなければならない。
ふと寒さが首筋を掠める。セナは無意味にネクタイをいじり、鼻から抜けるため息を
つく。ホームの明かりが一斉に点いた。六時だ。ホームに人は少ない。今し方電車がで
たばかり(セナが乗り損ねた電車だ)のホームは風が人の気配を掃き去る。首筋の肌寒
さはそのせいか。
あ。そこで思い至る。一人で帰るのなんて久しぶりなんだ。いつも一緒に帰るモン太
がいない。今まではいつも一人で帰ってたのになー。セナはフラフラとあとずさってベ
ンチにすとんと腰を下ろした。
時計を見る。時間はいくらも進んでいない。時間の歩みが遅い。今度は口からため息
を吐いて、力なく首を後ろに反らす。
と。
「わっ!」
セナの短い悲鳴が響く。背筋がぴんと伸び、バネ仕掛けのように姿勢が正される。
後頭部に当たったのは人の感触だった。
「わっすっすいません…」
「…にやってんだ」
「ひ…ヒル魔さん?」
聞き覚えのある声に振り向けば、ツンツンととがった金髪、同じような鋭角さでとが
った耳。
「いつまでつっ立ってんだ。座れ」
「は…はい」
しかし先ほどまでのように気安くは座っていられない。背筋は伸びて背もたれに触れ
ないでいる。対してヒル魔は世界中の椅子を独占しているかのような座り方だった。た
だのベンチに腰掛け、背もたれにもたれ、足を投げ出しているだけなのに。
階段を下りる靴音、声高に楽しげなお喋り。翻る短いスカートや、くたびれたスーツ
が隣の席に座ったが、セナは相変わらず背筋をしゃんと伸ばし座っている。人は次第次
第に増えていったが、まるで構わなかった。意識されるのは背中の気配、ただ一つ。こ
の世で、そればかりが存在するかのような気配だ。
一瞬たりとも緊張が解けない。息が苦しい。世界がどんどん狭まっていく。セナは反
対側のホームに電車が入ったのにも気づかなかった。まるで真空の中で押し潰されたか
のような頑なさ。それが永久に続くような。
「おい、糞チビ」
急に息が通る。
青空に向けて気分が抜けた時のように。
全てを取り払って、世界が蘇る。
「来い」
振り返ると、ヒル魔が電車の中から呼んでいる。
世界に色がついた。ホームを吹きぬける涼しい風。屋根の端から落ちる雨の雫。電車
の軋み。開いた扉の向こうに世界の中心を据えたかのような、彼。
「…来ないのか?」
「あ…、行きます」
駆け出し、足音高く電車を揺らして飛び乗った瞬間、爪先の後ろで扉は閉まった。
景色の流れ去るごとに晴れた水色の空が姿を現した。セナは扉のガラスに手をつき外
を眺める。すぐ隣ではヒル魔がガムを噛んでいるが、先ほどのような緊張が身体を縛り
上げることはない。息も楽だ。相変わらず同じ車両のお喋りは五月蝿いし、冷房も入っ
ていないから少し蒸し暑いけれども。
ちらりと見上げると、ガムの風船の向こうから鋭い目がきろりと見下ろした。
「あ…」
「次で降りるぞ」
「え?」
思わず返すと、ヒル魔の顔がにやりと歪んだ。
「降りたくないのか?」
「いえ、そんな…」
否定の言葉を口にするよりも早くしなやかな腕がセナの腰を捕まえる。
「……!?」
「これくらいで、いちいちビビんな」
プールでずぶ濡れで張り付くシャツっていいよね、というナツさんの言葉をうけて
書いた「塩素/初夏」の続きっぽい、突然溺れるプール話
「バカッ」
叱責の声は、その一言しか聞こえなかった。
セナは水を吐き出し、空気を得るのに精一杯だ。
それでも水や涙で滲む視界に映るヒル魔の顔は見えていた。
その怒った表情に縋って、一生懸命意識を繋ぎとめていた。
縋る。
手がいつの間にかヒル魔のシャツを掴んでいる。
「あの…」
足のつかないプール。ヒル魔は片手でセナを抱え、もう片手でプールサイドに掴まっている。
二メートルのプール。深い底。
押し寄せる、水の、空の色。
僕は
「あの、ぼく…」
プールで溺れたことがあって。
でも誰も助けてくれなかった。今まで、誰も。この腕を掴んで引き上げてくれた者などいなかった。
けれど、今。
「ぼく……」
言葉が途切れ、意識の途切れる間際、ヒル魔はひどく静かな表情をしていて。
目を瞑っていたから知らなかったけれども。
でもプールに溺れた冷たい唇に、触れた、塩素の匂い、冷たい水に濡れた口付けの、一瞬。
知らなかったけれども、ヒル魔は怒ってなどいなくて。
少し、悲しそうな顔さえしていた。
プール・その後
屋上に設置された街灯のような明かりがぽつんとついている。
プールが夜空の深さを映し、暗く青白い色に沈む。
時折熱い風が吹き、水面を渡る冷たい風と入り交じってセナの頬を撫でた。
「え…、今……」
時計を見たが、昼間プールに落ちたせいで止まってしまっていた。
「…………」
横を見ると、ヒル魔が電灯の下で銃を組み立てている。傍らに部品を磨いたらしい布が落ちていた。
セナは弾かれたように身体を起こした。自分がヒル魔の上着の上に寝ていたことを知ったからだ。
「あっ…あの、すみません! クリーニングして返しますから…」
「当たり前だ」
感情なく一言で返される。セナは上着を抱いたまま、肩を落とした。
「すみません、迷惑ばっかりかけて…」
また物凄い勢いで文句ばかり言われるのかと思いきや、ヒル魔は黙っている。
本気で怒っているのかもしれないと思うと、心が屋上から墜落するかのように、気持ちが沈んだ。
カシン、と鉄どうしのかみ合う音が響く。
拳銃が一丁出来上がった。ヒル魔はそれを構え、セナの眉間を狙った。
「ヒッ、ヒル魔さん…」
「バカ、入ってねぇよ」
ヒル魔は銃口で自分の隣を指し、
「来い」
おっかなびっくり隣に座り、慌てて自分の上着を脱いで肩にかけようとすると、
「いらねえよ、バカ」
と言われたが、声の端が笑っている。
進の参戦、一人称が女々しいのはその時読んでいた本か何かの影響と思われる
まるで、あなたは、わたしを離さないかのよう。
夏も終わりの特有の、あのとろとろとした熱気が不意に風で飛ばされた。
掴まれた腕が痛い。
土手の途上は陽炎も消えうせ、射す日も意味を為さず、感じられるのは腕を掴む手のその強さのみ。
それ以外は意味を為さない。
腕を掴む力の強さと、頭上から静かに投げかけられた、そのただ一言以外に。
あなたの触れる手は、まるで炎のようでした。熱く焼かれた鉄のようでした。
まるで刻印を残すように、わたしの腕を軽々と、そして強く掴んだあなた。
伝わるそれの熱さに、思わず目を瞑った。許してください。
あなたを見なかった。許してください。
許してください。
あなたに掴まれた腕が痛い。
ごめんなさい。ごめんなさい。あなたではなく、て。
まるであなたは、わたしを離さないかのよう。
逃げ出したわたしは、あなたの掴んだ腕を、まるで火傷したように見つめた。
あなたの力強い指の一本一本、わたしに食い込んで、それは赤い跡になりました。
まるで印のように。あなたが見つけるために。わたしが見るために。
わたしが忘れないために。
「これは?」
「今日、進さんに会って…」
「進?」
「あ、そんな乱暴されたとかじゃないんです。ただすれ違いそうになったから、こう、止められて……」
「跡になってるじゃねえか」
「進さんは、力、強いですから」
語尾は消えず、しっかりと断定するようにセナは言う。
「……それで?」
「少し、……痛い、ですね……」
笑う。ごまかし笑い。セナは隠すのが下手だ。動揺があからさまに表に出る。
「あの…ええと……」
その続きを聞く必要はなかった。迷う目が顕著に物語る。
背を向けて歩きだしたが、背後に感じられたのは安堵の気配ではなかった。
セナはその場から動かず、縋るような視線が指先の掻く程の弱さで背中に食い込んだ。
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