シューティングスター・シューター





 ゴミついた街の空気を鼻から肺の底まで吸い込んで循環させて、アスファルトが照り返
す熱さに靴底と素肌を灼いて、べとつく湿気を手のひらで舐め取るように額の汗を拭う。
今朝かき込んだ米の飯より、インスタントの味噌汁より、耳から当たり前のように入って
くる日本語のざわめきといった具体的なものより、十文字は、如何と口にできない漠然と
したものに帰国したのを実感した。手のひらの汗を制服の尻で拭う。暑い。
 九月というカレンダーは毎年当てにならない。写真は紅葉の始まった山や、蜻蛉の飛ぶ
夕焼け空が定番だが、周辺にそんなものはないし、それらを想起させるような風も未だ吹
きださない。残暑厳しいつったって毎年こんなもんじゃねえか。足はいつの間にかSON
SONに踏み込んでいて、ポケットの金でアイスを買った。
 外の、庇の下の僅かな影に腰を下ろし袋からアイスを取り出すと、既にクリームがゆる
くなっている。二口三口急いで齧ったが、溶けたそれはバーを伝って指を汚した。
 喰い終わって手の中に残ったバーには「当たり、もう一本」の文字が印刷されている。
今更、こんなものがあるのか。このコンビニに持ち込んでも有効なのだろうか。っつうか
アイスで当たりが出たのなんか初めてだぞ。
 兎に角べとついた手を洗いたかったので、再び店内に戻りトイレで手を洗う。流れる水
に手を浸しているとあまりに気持ち良くて、しばらくこのままでいたくなるが、あまり便
所の長い男というのも、どうだ。
 ハンカチを持っていなかったので、やはり制服の尻で手を拭いながらトイレを出た。す
ると雑誌を立ち読みしていた同じ制服の少年と目が合う。相手が小柄なので、まず目につ
いたのが癖のある黒髪で、表情を見るのはその後になる。
 セナは大きな目を丸々と見開いて驚いていた。
「…ンだよ」
 急に不機嫌が湧き上がる。全く理由などないのに、寧ろ待ち人目の前にきたるのだが。
この待ち人、視界の端にあるうちは心持ち穏やかではないものの、気も悪くない。しかし
目の前にしたとき十文字は決まって不機嫌な態度を取らざるを得なかった。顔が身体が勝
手にそう動き、心もつられて不機嫌になるような、全く以て理不尽な反応は、心臓の裏を
掻くようなむず痒い感情と共にこのひと夏、持て余している。
 不機嫌を丸出しにした一言を口から出したからには、もう黙って立ち去るしかない。ン
でこうなるかな、ここ数日教室でも俺らコンビネーションは上手いとこいってたはずなの
によ、二人きりになった途端これだ。クソ、こんな所、寄らなけりゃよかった。
「あ、帰るの?」
 セナの声が追いかける。
「あのさ……待ってたんだ、トイレから出てくるの」
 見てたのかよ。サイテーだ。
「ねえ、時間ある?」
 自動ドアの向こうへ出た途端、声が熱気に揺らぐ。まるで陽炎越しに見る景色のように
言葉もフキダシの中でユラユラ揺れるようだ。ああ、何考えてんだ? バカらしい。
「待って、十文字…君」
 慣れない調子で名前を呼ばれる度、気持ち良いほどに疼く。じりりり、と心臓の裏が掻
かれる。振り向くしか、ねえだろ。これ以上無視したら俺の方がどうにかなりそうだ。
 十文字はくるりと振り向いた。しかし追いかける側からすればそれはかなり急な行動で、
コンビニを出て急いて相手の背中を追いかけたセナは勢いづいたまま十文字と正面衝突の
はめになる。十文字は蹌踉めきながら一歩下がった右足で自分の身体を支え、真正面から
胸に飛び込んできたセナを両腕で抱きとめる。
 はぁ? 抱きとめる!?
「うっわ…ごめん」
 一瞬のうちに血を沸騰させた十文字のことなど知らずか、セナはバツの悪そうに十文字
から離れる。支えるものをなくした手が数秒宙をさ迷った。
「ごめん、大丈夫?」
「…ああ」
 そうよかった、と早口で呟き、セナは俯く。顔が見えなくなる。十文字の中にまた陽炎
のような苛つきが立ち上る。
「ンだよ、用があったんじゃねえのかよ」
 口調はやはり急かす。堂々巡りに頭が痛くなる。このことに関して自分は激しく学習能
力の低下を感じるんだが。
 しかしセナは存外、そんな口調など気にしていないかのように、用って言うかさ…と愛
想笑いを浮かべながら続ける。
「レコード屋さん、一緒に行かない?」
 …悪い、暑さのせいだ。俺は頭の中で今聞いた科白さえ改竄したらしい。何だよ、その、
普通のクラスメートとか、トモダチみたいな科白は。しかも上目遣いでこの科白はねえだ
ろ。今時漫画でも、ねえだろ。
 そもそもセナの方から誘うってのがありえねえ。俺の脳はいつの間に自己生産の妄想で
自慰に耽るようになったんだ?
「…大丈夫?」
 セナの声が揺れる。ほら、やっぱりな。熱中症だ。
 ガラスの壁に背を押し付け、手のひらで眼を覆う。指の隙間から見下ろすと、セナがま
た眼を見開いて驚いている。


 商店街に人が多く、また自分達と似た制服姿の男女が多いことが十文字の神経を刺激す
る。こと知った人間には会いたくなかった。十文字は些か早足で歩いたが、セナもそれに
遅れるまいと歩幅を大きくとり、自分の隣を歩いている。
 レコ屋は異常に冷房が効いていて、入った瞬間、セナが大きなくしゃみをした。十文字
が入り口にディスプレイされた新曲の前で立ち止まる間に、セナは棚からアルバムを一枚
手にとってキャッシャーに向かう。特に悩むようでもない、一連の動作は淀みなくスムー
ズだった。
「おまたせ」
 十文字の目の前に帰ってきたセナは、はにかみながらちょっとCDの入った袋を掲げて
見せた。
「…もういいのか?」
「うん」
 セナは微かに俯いた。十文字はセナの頭から、あさっての方へ目を泳がせ、もう一度セ
ナの頭を見た。やはり俯いている。十文字の足が動くと、その頭が少し揺れた。それから
二人はのろのろと歩き出した。
 目的が失われた途端、セナの脚が重くなったように感じられた。十文字はそのことに苦
いものを噛んだ気分になる。どうして俺を誘う必要があったんだ。せっかく目当てのCD
を手に入れて、どうしてベタベタした泥みたいな歩き方してんだよ。つうか、何で俺はこ
いつの隣を歩いてるんだ。目的を失ったのは十文字も同様だ。否。
「セナ」
 呼んで立ち止まると、セナも立ち止まり十文字の顔を見上げた。
「ゲーセン行こうぜ」
「え?」
「時間あるんだろ」
「あっ、うん」
 セナは頷く。頷いて上がった顔が晴れている。素直に頷き、セナは笑った。
 自動ドアから一歩店内に入った途端、冷風と喧しく耳を聾する音が襲い掛かるように身
体を包む。その風圧を受けてセナが少しのけぞる。十文字はわざとぐんぐん歩いていった。
セナがすぐに小走りで自分を追いかけてきた。
「お前、いつも何してる?」
「あ、僕、家でやるのが多くて…」
 十文字は格ゲーの台の前に腰を下ろし、反対側の台を指差した。
「え? 対戦?」
 セナは驚いていたが、逡巡をすぐに抜け出して、よーし、と小声で呟くと反対側の台に
ついた。


「意外だな」
「え? 何?」
「なんでもねーよ」
 ほれ、と十文字は空から急に迫ってきたコウモリ男を撃つ。
 セナは強かったのだ。十文字は完全に侮っていた。最初一試合は完全にセナのペースで
もっていかれた。セナは言った。だってずっと家でゲームばっかりしてたからさ。十文字
はその時、最初からセナを負かそうとしていた自分に気づく。どうしてかは分からない。
ただ、軽く、自分は信じていたのだ。絶対にこいつ負かせる。
 その後はアーケードゲームをやりこんでいた十文字とどっこいどっこい、といったとこ
ろだったろうか。セナが小銭が切れたと言った。そこで立ち上がって、今モデルガンをそ
れぞれに持ち、画面に現れるゾンビをひたすら撃っている。流石にこれはやり慣れていな
いようで、セナは最初から撃ち損じ、やられることが多かったが、かなり集中してやって
いる。こっそり盗み見ると目が真剣で、十文字は笑いたくなる頬の筋肉を無理矢理押さえ
込み、強張らせる。
 こういう愉快な気分になったことがある。いつだ。これはとても親しい感覚となってし
まった愉快さ。
 いい気分だ。
 思わず頬を緩めた途端、脇から飛び出したゾンビの手にかかる。生々しい音と、画面が
赤く染まってゲームオーバーだった。
「あーあ」
 セナがモデルガンを握った手をだらりと下におろした。溜め息をつきはしたが、顔は笑
っている。このようなセナの表情が、いつからか自分の側にある。自分の生活の中に一部
としてある。
 悪くない。
 外へ出ると、時間はまだ遅くないはずだが、空が真っ暗になっていた。ぬるい風が髪を
なぶる。少しもいかないうちに雨は降り出した。少し先のバス停にバスが停まっているの
が見える。
 十文字は背後に手を伸ばし、言った。
「行くぞ」
 と、頷いたセナの姿は次の瞬間、背後にはない。手が宙を泳ぎ、泳がせたまま顔を前に
向けると雨の中を走る小柄な背中がある。それはバス停手前で急ブレーキをかけ、振り返
った。
「早く!」
 当たり前じゃねえか。十文字は走りながら繰り返した。アイツはアイシールド21だぞ、
四十ヤードを四秒二で走るんだよ、俺より速いんだよ、当たり前じゃねえか!
 歯を食いしばって走る。飛び乗ったバスは込んでいた。奥の吊り革に掴まり、十文字は
俯いた。背や肩にシャツが張り付く。濡れたローファーを中心に床に染みができた。セナ
も吊り革に掴まり、肩を落としている。
 車窓は叩きつける雨にその景色を歪めた。道路はあっと言う間に水浸しになった。バス
は水しぶきを跳ね上げながら走る。時々、足元から水を跳ね上げるザアッという音が響い
てきた。
 と、ドンと硬い音がした。見るとセナが慌てて落とした鞄を拾っている。十文字と目が
合うと、ごめん、と理由もなく謝った。セナは疲れているようだった。外を眺める目が虚
ろだ。眠いのかもしれない。
 乗り換えの多い交叉点で人が降りたのを機に、十文字は後部の座席にセナを押し込んだ。
「あ、え? 僕、このままでも平気だけど…」
 それまでパシリの位置に甘んじてきたらしい遠慮を無視して、十文字は無言でセナの肩
を押した。同じく学校帰りらしい制服姿の学生が取られた席を恨めしそうな目で見たが、
十文字はそれを一睨みして、セナを窓際に押しやって自分も座る。
 セナが俯き加減に、自分の膝を見つめる。
「ごめ……」
 が、口から出かけた言葉をセナは途中で飲み込んだ。それから十文字の顔を見た。
「ありがとう」
 それからまた照れたように俯いて、膝を見詰めていたが、その緊張は徐々に緩んだ。ま
ず肩の力が抜け、鞄を抱いた指が解けてゆく。十文字はそっとそれを取り上げ、自分の膝
の上に乗せた。
 こくり、こくりとセナの首が揺れ始めた。揺れては目覚め、目覚めてはまたまどろみの
中に引き戻される。じわじわと右肩に重みがかかる。十文字は二人分の鞄を膝の上に乗せ
たままじっと前を見た。セナの首が肩に触れ、そのまま枕にするようにもたれかかっても、
ただじっとしていた。このバスが駅前に行かず、郊外へ走るものだと分かった時も、ただ、
セナを起こさないように、それだけを考えていた。
 心臓の裏でじりじりと音がする。


 そのバス停は、終点ではないというだけで、街からは遠く離れた草の生い茂る堤防の上
にあった。辺りには何もない。ただ堤防と、背の高い草が風に揺れる河川敷と、水量の増
えた川の水音、そればかりだ。
 二人はしばらく錆びた標識の側に立っていた。雨は止み、代わりに涼しい風が川下から
川上へ吹きぬける。セナはバスが走り去っていった方向をぼんやりと眺めている。次のバ
スがくるまで一時間あった。即ち、ダイヤは一時間に一本だ。
「悪い…」
 短く、低く呟いた。それが精一杯だった。苛つきに似たものが腹の底から湧いてくる。
ふとかつてこのような時に嗜んだ煙草の味を思い出す。
「…気持ちいいね、ここ」
 セナの声に十文字は顔を上げた。セナは暮れた空を見上げている。その顔は今しがたの
十文字の苦い呟きも聞こえていないかのようだった。上の空のような、ここにはない何か
を見ているような。雲は風に押し流されて、今度こそ暗く染まった紺色の空が頭上には広
がっている。この空の先には何があったろう。風が吹くたびに雨の匂いが通り抜けた。
「なんか、走りたくなった」
「はあ?」
「走って帰ろうか」
 セナは足元の石を一つ蹴飛ばす。目が、遠くから、今目の前を見詰める目に戻っている。
その目に、はっとした。
 夏の間中、こいつは走っていた。俺はその後姿を見送った。毎朝、毎朝。セナの背中を
見送り、トラックを押し続けた日々。確かに数日前まで、自分はアメリカにいたのだと、
肉体が思い出す。
「すごく、いい気持ちなんだ。今日…、いい日だった。コンビニで会えて、ラッキーだっ
た」
 風が吹く。髪がなぶられ、前髪が浮き上がる。額が露わになる。それだけで印象が変わ
る。
 十文字が歩き出すと、セナも歩き出した。鞄を小脇に抱え、ランニングの速さにあげる。
セナは易々と十文字の隣に並び、追い越した。スポーツマンというには細い背中。しかし。
 不意に十文字はダッシュした。一瞬、追い抜く。その背中を追い越し、彼方へ伸びる堤
防の先を目指す。が、セナの背中はまるで瞬間移動のように、再び十文字の前にある。
「あーあ!」
 セナが大きな声を上げた。
「皆、いればよかったのに!」
 こんなに気持ちいいのに、とセナは叫んだ。
 十文字は急に自分も叫びだしたい衝動に駆られた。気持ちいいと大声で屈託なく叫び、
走るセナが胸を内側から叩く。あの心臓の裏を掻く感情とも違う、これは、胸から頭を抜
けて天に突き抜けるようなこの感情は。
 誇らしい。セナが走る存在であるということが、歓喜にも似た誇らしさを生む。何も不
思議なことではない。セナが走るために自分はいる。あのフィールドに、ラインとして。
セナの後姿を見ることこそ、己が誇りの証でもある。
「あのさ!」
「…んだよ?」
「同じクラスでよかった」
 脚がもつれた。十文字はたたらを踏み、ペースを崩す。セナはそれに気づかず、前を見
て走る。
「クラスメートでよかったな!」
 セナの大声が、素直に腹から吐き出したような声が、風と共に空を走り、草を揺らした。
そして十文字をつき抜けた。
 十文字はもう一度濡れたアスファルトを力一杯蹴った。ぐん、とセナの背中が近づく。
十文字は手を伸ばす。細い腕を、掴んだ。
「わっ」
 掴まれた腕が痛かったのか、セナは少し眉をしかめて振り返った。
「…………」
 何を言えばいいのか分からず、セナが沈黙に惑っている。十文字は、しかし手を離さな
かった。
 空は濃い群青。郊外だが、やはり星は見えない。風が止むと肌に触れる湿気。雨に濡れ
たアスファルトの匂い。アメリカを思い出す。広く真っ直ぐな道路と、空へ抜ける風。あ
そこには星があった。ざくざくと音を立てそうな数の星が。
 セナはどんな空の下も走ることが出来る。宇宙を駆ける星のように、きっとどんな地だ
ろうと関係ない。どこででも走れるだろうし、走り続けるだろう。自分の声さえ届かない
遠くへ、声さえ届かない速さで走るのがセナの使命だ。
「セナ」
「…なに」
「…腹減らないか」
 セナはちょっと俯いて自分の腹を見た。
「うん…」
「アイス、奢ってやる」
「え、え? いいよ、そんな」
「当たり、出たんだ」
「…嘘」
「嘘じゃねえよ」
「え、凄い、ホント? へえ、すごいなあ、見せて」
 十文字は昼間に食べたアイスの棒を取り出して見せた。
「うわー、当たりってあるんだ、本当に。初めて見た」
「俺も初めてだ」
「ラッキーだね」
 そう言われて、初めて十文字は手の中のただのアイスの棒の存在が嬉しくなった。ほん
の少しだけだが、素直に嬉しかった。
 十文字はゆっくりと手を離した。それをセナの目が追った。
 二人、並んで歩き出した。ふとセナが、鈴虫の声が聞こえると言った。十文字も耳を澄
ました。すると確かに草の中から小さく羽を震わせる虫の声が幾種類か聞こえてくるのだ
った。十文字は風に吹かれる間に、身体から汗が引いているのに気づいた。
「…秋だなあ」
 十文字は大きな声で言ってみた。その声は風に乗り、空を駆け、草を揺らすように響い
た。隣でセナが笑った。





カイオウ様へ捧げます、7777リク「ラッキーを引き当てる十文字(セナでも可、十セナ希望)」
大変遅くなってしまいました。お待たせしました―。
セナと十文字が同じクラスになったことこそ最大のラッキーと思って書きました。


ブラウザのバックボタンでお戻りください。