シュガーレスの爪痕―――俺らのソウルはきわめて弱く脆いからね ちょっとやそっとでは戻んねぇ と思う まあ、このお、コンビニやなんかでは売ってるけどね 百円とかで しかしそれがどういう結果をもたらすかは 言わぬが花でしょう (町田康「言わぬが花でしょう」) 皐月雨とやらに打たれて学校脇の紫陽花が色づいている。紫から赤。リトマス試験紙み たいな変化をしながら、それはそれで綺麗なのに、自分を着飾ることに懸命な十代女子達 は見向きもしない。毎日訳もなくダルイ十代男子達の目に、勿論、留まるはずもない。 雨の下校時、濡れる何百というローファー。泥水を跳ね、または往来を行く車に逆に泥 水を跳ねられ、文句たらたら、梅雨なんて嫌い、そんな呟きも側溝に流れ込んでおさらば。 後は憂鬱な溜め息。湿った、しかし冷たい空気。 寒い、放課後だった。 別に待っている訳ではない。どちらかがどちらかを意識して、立ち読みして時間を潰そ うとか、お菓子の棚で時間を稼ごうとか、そんな気は、全くなかったはず、だが。 傘なんて面倒なものを持たなかった十文字は、しかし商店街の庇の下を大人しく歩くの も買い物客によって阻まれ、結局濡れに濡れてSONSONに足を踏み入れた。一瞬、店 員が不快気な顔をする。構うもんか。ビニールの傘に目が行く。買うべきか。 「あ」 小さな声が十文字を捉えた。お菓子の棚から顔…までは覗かなかったが、例によって特 徴的な黒髪が覗いている。十文字は目の中に入る水滴を手の甲で拭い、拭った手をズボン の後ろで拭きながらとんがった黒髪に近づいた。 そこには案の定、セナの情けない愛想笑いが待っていた。今、帰りなんだ、と独り言の ように話し掛けられる。十文字は応えなかった。その代わり、セナの手の中のものを見て いた。キシリトールガムと無糖ガム。 セナはと言うと愛想笑いを引っ込めて、ずぶ濡れの十文字に驚いている。 「傘…は?」 十文字はやはり応えなかった。その無言にセナはまた怯えたのか、手の中のガム二つに 視線を落としたが、結局キシリトールを棚に戻しキャッシャーに向かった。向かう手前、 ちょっと立ち止まり、十文字の顔を見上げる。 「あの…」 言い淀むセナを置いて入り口に向かう。刹那、セナは不安そうな顔をしたが、十文字が そこで立ち止まり、うながすようにセナを見ると、一つ頷いて無糖ガムをキャッシャーに 出した。 ベージュの傘の柄を握ったのは十文字だった。セナは両手で鞄を抱え、申し訳なさそう に歩く。十文字の分も持つとセナは言ったが、断固として断った。ムキになる必要などな かったのに、もう駅に着くと言うのに、二人はSONSONを出てから一言も言葉を交わ していない。あるのはセナから発せられた言葉だけ。それも空しく、雨に流される。 セナが屋根の下に入るのを確認してから十文字は傘を傾け、閉じた。と、背中がびりび りと冷えた。風邪だろうか。 「あの…」 急に聞こえたセナの声。 「おせっかいだったら、謝るから…っ」 振り向いた時には、既にセナの姿は改札を抜けてプラットホームに消えている。 十文字は乱暴に畳んだ傘を握り締め、後を追う。手が、濡れた。 発車のベルの音が響いた。その時、十文字はまだ架橋の階段を上っている途中だった。 下りに差し掛かったところでローファーは濡れたコンクリートに見事に滑り、声を上げる 間もなく転げ落ちる。 何段を落ちたのか分からない。全身が痛かった。そこへ吹きつける電車の去った後の風。 間に合わなかったか。 「…大丈夫?」 躊躇いがちな声がかけられる。痛みを堪え、何とかこじ開けた右目に映ったのは、目の 大きな、心配そうに眉根を寄せた。 「セナ…」 細い手が差し伸べられ、もう一度繰り返す。 「大丈夫?」 「何で…、ここにいるんだよ」 「電車、まだだから」 「今発車したのは?」 「今のは…」 ふとセナの目から色が消える。 「…違うよ」 十文字がセナの手を掴むと、相手は意外なほど強い力で握り返し起こしてくれた。 「制服、泥だらけだね」 「ん…」 「そのまま帰るの?」 「ああ…」 「家の人に怒られない?」 セナの声は純粋に心配そうだった。十文字が応えないでいると、反対側のホームに新し い電車が滑り込んだ。再び風が吹く。ぞわりと全身が粟立った。十文字はくしゃみをした。 「あのさ…」 電車の扉が開く。セナは控え目に、こう言った。 「僕の家、来る?」 噛み付きながらしたキスの、味が酷く舌にしみる。 どこの駅か知らない。多分、自分の帰路に近いはずだが、そんなことはどうでもいい。 セナが拳で何度も胸を叩く。構いはしない。このまま窒息させても構いはしない、気がし た。 セナの手に握り締められた無糖ガム。左手で、その手首を強く掴む。痛い、と抗議する 響き。ポスターの貼られた壁に押し付けると、微かに悲鳴のような。そして手が開く。ガ ムが乾いた音を立ててコンクリートの床の上に落ちる。 頭上からは雨の音。壊せ、と十文字は思った。この架橋もろとも叩き壊せ。 話は何故、無糖ガムで悩んでいたのか、だった。 ずぶ濡れの十文字は入り口の側に佇み、何故かセナもその隣に立っていた。また鞄を両 手に抱えて、しかし傘の中ほど肩身狭そうにしているのではない。 そう、傘は階段から転倒した際、折れてしまった。 ワリィ。 ううん、しょうがないから。…それよりあんまり怪我なくてよかったね。 まあな。 よく、会うもんね、コンビニ。 お前、よくガムのコーナーいるな。 …そうだっけ。 無糖、好きなのか? 別に好きじゃないんだけどね、とセナが苦笑する。 じゃ、何だよ。 何だろう、気になるからかなぁ…。 気になる。無糖ガムが? その味が? それを噛む人間が? ドアが開いた瞬間、腕を引いて飛び出した。セナは目を丸くして、え、ここ違う、え、 どうしたの? とそれでもついてくる。 ついてくるからいけない。手を振り解け。俺にも訳が分かんねえんだから。 そして噛み付いた、先は唇。 セナは肩を大きく上下させながら時折、えずきにも似た咳をする。泣いているのかもし れなかった。伏せた顔は、随分下にあって、見えなかった。 背中を壁に押し付け、セナがずるずると座り込む。引き摺られたポスターの端が破れた。 が、それも雨音の下では些細な音。 悪かった、と言えば済むのだろうか。まさか。 手の中の傘が折れている。ぴたぴたと水音が響いた。どこかから雨漏りしているのだ。 折れた傘を両手で握り締め、十文字は隣にしゃがみこむ。同じように背中をずるずると 壁にもたせかけて。 どすんと腰を下ろすと、コンクリートの床は冷たかった。身体も冷えた。シャツを汚す 泥が染みこむような気がした。 「何で、帰らないの」 セナが嗄れた小さな声で行った。 「どっか、行ってよ」 行けるか、と心の中で呟いた。どうしてここを離れられるのか。 しかし十文字は口を開かなかったし、二人の間にあるのは沈黙だけだった。後は雨音が 降る。雨漏りがコンクリートを打つ。酷く寒い。酷く寒い日なのに。こんなに寒い日なの に。雨が冷たいことも分かっていたのに。 「ワリィ」 掠れた声で呟いた。そして項垂れた。 ざあざあざあざあ、ざあ、ざあ。 ぴた、ぴた、ぴた、……ぴた。 チラチラと音を立てて、頭上の蛍光灯が点灯した。無慈悲で暗い光の下で自分達の姿を 見た十文字は錆びたシャベルで心臓を抉られた気分になった。 「………」 名前を呼ぼうとした喉が塞がった。息さえ、苦しくなった。十文字は手を伸ばし、セナ の肩を抱いた。細い肩は震え、やがて細く嗚咽が聞こえた。 |