降り出した雪が路地の中にも舞い込む。両脇から迫る壁に遮られ細く見える通りの風景
は陰鬱で忙しない。雪のせいで人々は一層俯き加減になり、早足のまま過ぎてゆく。十文
字はそれらに蓋をするように、背で通りを隠した。セナはいつまでも息をきらせ、俯いて
いる。心持ち顔が青い。
「おい…」
「…何でもない」
 セナは苦笑しながら首を振った。
「ただ、ちょっと心臓がドキドキして」
 試合のときでもこんなに緊張しなかったなあ、とセナは震える声で冗談を言ってみせた。
「…怖いか」
 十文字は低く、尋ねた。見開いた大きな目が十文字を見る。眉根が寄り、皺が刻まれる。
セナの声も低く答える。
「怖いよ」
 細い手が十文字の胸に触れる。
「これが夢だったらどうしようって、すごく、怖い」
「夢か、これが…」
 笑って言い返しかけた十文字の言葉は呑まれた。セナは俯いたまま、十文字の胸を掴ん
でいた。服に皺が寄り、拳が強く押し付けられる。
「もう、会えないと思った…」
 ふと憤怒にも似たものが十文字の内に湧き上がった。彼は両手でセナの肩を掴んだ。そ
の肩の小ささに怯みながらも強く掴んだ。
「これが夢か?」
 セナの顔を上げさせる。涙の濡らす顔をセナは背けようとしたが、十文字の手はそれを
許さない。セナの目を真正面から見詰め、言った。
「逃げよう」
 セナの唇がみるみるうちに歪んだ。



 蜘蛛の巣が廊下の天井に張っている。扉が開くとそれは幽霊のヴェールのように白く光
り、ふわりと揺れた。抑えた足音で駆け込む木靴と革靴。夕闇の逆光を受け、先に駆け込
んだ小柄な人影が顔を上げた。ふわふわと揺れる蜘蛛の巣が目についた。蜘蛛はどこにい
るのだろう。大きな巣なのに、主の姿が見当たらない。大きく見開いた黒い瞳が廊下を奥
まで辿る前に、背後で扉が閉じられ屋内は埃くさい暗闇に沈んだ。
 留め金のかかる音が消えたとき、扉の向こうの活気がじわりと染み込むように漏れ入っ
てきた。軍歌、心持ち高揚した物売りの声、演説の声、ラジオの大音量。塀の内側にはな
かったものだ。それを一枚の軋む扉が隔てた。闇の中で痩躯が震えた。扉を震わすそれら
の音の振動が自らにも影響を及ぼすかのように。すると、強張った肩に重たいものが触れ
た。
「セナ…」
 十文字の声にセナは頷いた。そして肩に乗せられた手を感じた。普段、滅多に触れてこ
なかった彼の掌の重みをセナは全身で感じた。この世界にこの掌がある。その重みを感じ
るうちに、喧騒は彼方へ遠退いた。セナは目を開いた。
「大丈夫だよ…」
 乾いた空気に掠れた声で答えた。



 縦に細長い窓から微かな光が入り込む。北向きの古い目立たないこの部屋には終日、日
が射さないのだ。しかし眼下に見下ろす屋根が朝日を照り返して、窓は仄かに白く光って
いた。ぼんやりと目を開いた十文字は暫く仄かな光の中で息をする小柄な裸を、ただ見詰
めていた。昨日、決死の覚悟で彼を塀の向こうから連れ出した記憶も遠い日のことのよう
で、実感が湧かない。一晩重なり合っていた身体に手を伸ばす。
 親指で頬に触れる。指の腹を少し肉のそげてきた頬に押し付け、横に撫でる。チームの
中に彼がいたとき、セナの頬はアイシールドのついたヘルメットの中で幼い丸みを残して
いた。それがそげて、印象が厳しくなったかと思いきや、寝顔は相も変わらず。知らず十
文字の頬は緩んでいた。親指と人差し指で頬を抓る。まだ抓るだけの肉が残っている。
「痛いよ…」
 目を瞑ったままのセナが呟いた。十文字は慌てて手を離す。
 セナがパチリと瞼を開いた。
「……こ、のっ」
 十文字がぱっと顔を赤くし拳を作ると、セナは両手で頭を庇いながら笑った。
「あーあ……」
 セナは笑いの終わり際に虚ろな声を漏らした。両手がガードするように頭を包んでいる。
表情が腕に隠され、覗いた口元が薄く笑っている。
「おい、セナ…」
「触んないで」
 十文字がセナの腕に手をかけると、存外硬い声がその唇から漏れた。
 それはもう確信だった。十文字は起き上がるとセナの両肩を押さえつけようとした。セ
ナはそれに抗った。ベッドが軋んだ。セナは毛布を手繰り寄せ、頭からすっぽりと被った。
「セナ!」
「触んないでよっ」
 尖った声が押し殺した声で叫び、それから毛布がゆっくりと下げられる。十文字は息を
ひそめてセナの顔を覗き込んだ。目尻からこめかみへ一筋、涙の流れた跡がある。十文字
も声を押し殺し、呼ぶ。
「セナ…」
「やめてよ」
 セナは眉をひそめ目尻に涙をためたまま、苦笑した。
「帰れなくなっちゃうじゃない…」
 向こうに。壁の向こうに。
 十文字は鉛の重みを持った一言一言をようやく喉から引き出した。
「逃げるって…言っただろ、俺と…」
 セナは首を横に振る。
「駄目。やっぱり駄目だ。母さんと父さんを残してなんて、行けない」
 黒い瞳がサイドボードの上を見た。十文字もセナの視線の先を見る。昨夜の残りのビー
ルとクラッカーが乗っている。
「僕だけ食べて。僕だけ飲んで。僕だけ、こんな温かいベッドで寝て」
 言いながらセナは十文字の手に触れた。
「安全な所で…」
 そっと腕を絡め、唇を押し付ける。
「一緒に、いて……」
 ふと涙が溢れ出した。涙につかえる声でセナは囁いた。
「好きだって、言って、もらって……」
 駄目だよ、と呟きかける唇を無理に塞いで十文字はセナの細い身体を抱きしめた。



 朝の光はまだ遠い。空は隠滅な灰色に垂れ、街は死神の通った後のように静かだ。
 目の前には壁がある。粗い煉瓦でできた壁は延々と伸び、視界から切れることはない。
十文字は耳を澄ました。
「僕の声が聞こえる?」
「聞こえてる」
 粗い煉瓦に耳を押し当てる。そんなことをしなくても聞こえていた。しかし十文字は冷
たい壁に耳を押し当てた。そうすることでたった今、この手の先から失った体温を僅かで
も取り戻すかのようだった。
「俺の声は聞こえてるか?」
「うん…」
 セナが自分の声の聞こえる所まで伸び上がる気配がする。
「聞こえてる」
 しかし十文字はそれ以上口を開かなかった。壁に耳を押し当て、同じように冷たい汚れ
た煉瓦に耳を押し当てるセナの気配を聞いた。
 ほと、ほと、と弱々しい音が聞こえた。セナの拳が壁を叩いていた。
「セナ」
 十文字は囁いた。
「泣くな」
 壁の向こうでこらえるよいな息。そして分かる、うなずく気配。
「セナ」
 別れ際に頭にかぶせた帽子。首に巻きつけたマフラー。少しでもセナを暖めろと願う。
セナを守れと願う。
「くそっ」
 十文字は拳を壁に叩きつけた。何故、信じてもいない神に祈ることしかできない。何故、
この手で守ることができない。
 拳を叩きつけた向こう側からほとほとと壁を叩く音が聞こえた。
「泣かないで」
 セナの声は微笑していた。その顔が自然と瞼に浮かんだ。
 十文字は目を瞑り、壁に額を押しつけた。



 窓の外は暗くなっていた。十文字はベッドに倒れこみ、何も考えず指先を見詰めた。セ
ナの手を離してしまった、自分の右手だった。その右手をのろのろと持ち上げ、サイドボ
ードの上のビール瓶を掴む。残った半分を喉に流し込むと、気も抜けた生ぬるいものが身
体の内側を這うように流れ込んだ。
 息をつき、右手を弛緩させる。手から離れた瓶が落ちて床の上で音を立てる。枕からは
まだセナの匂いがした。十文字はゆっくりと瞬きをした。そしてのろのろと視線を天井に
上げた。セナの見詰めていた天井。大きな白い蜘蛛の巣。十文字は知っていた。この蜘蛛
の巣に主はいない。蜘蛛は死んだ。蜘蛛は死んで、床に落ちた。乾いた死骸は床の隅に転
がっている。
 十文字は知っていたのだった。蜘蛛は、飢えて、死んだと。