コールド・フィッシュ






 雨音が耳を聾す。追い越し去る車の跳ね上げる水音も耳に入らない。追い抜かれる際、
浴びせられる泥水も、気にはならない。疲労の淀みから立ち上る声。膝の痛み。
「ブレーキかけないで…」
 開いた唇に雨水が流れ込む。セナは喉を鳴らしてそれを飲み込む。
「ジグザグ……」
 背中から下りた重み。だからといって身体が羽のように軽くなった訳ではない。しかし。
 雨音が全ての音を掻き消す。背後からその足音がついてきているのか、確かめる術はな
い。
 セナは走り続ける。振り向かなくても大丈夫だ、きっと。僕は振り返らない。
 セナは灰色の空を見上げる。暗く、重く、雨の降り続ける空。。雨脚は弱まる様子もな
い。降ればいい。負けやしない。誰も負けやしない。
 トラックが追い越していった。もう夜が近いのだ。夏彦が歯を剥き出しにし、ラストス
パートをかける。闇は降る雨に乗って地上を覆った。走るセナの背中を追い抜く車のライ
トが照らし出した。
 ホロのかかった荷台の傍らに佇む影がある。細い、シャープな影を視界に入れたとき、
セナは一つ息を飲み、また走った。
 ヒル魔は荷台にもたれかかり、セナを見ている。ガムを噛んでいる様子もない。
 最後の対角線を描き、セナはようやく足を止めた。淀みの底から悲鳴のような痛みがわ
っと湧き出す。セナは濡れた掌で顔を拭い、大きく息をついた。道路脇の草地に踏み込ん
だ靴が、くしゃくしゃと濡れた草を踏む。
「放っとけっつったろ」
 セナは一つ頷いた。
 それを聞いたヒル魔はゆらりと身体を起し、セナに近づいた。
 ヒル魔はセナの目の前に立ち、上からセナを見下ろした。セナは天を仰ぐようにヒル魔
の顔を見上げた。
 沈黙のうちに双眸はセナを射抜くように見下ろした。眼光は具現化した怒りのようだっ
た。喉の奥を冷たい唾がせりあがった。しかし強く繋いでしまったかのように視線を外す
ことが出来ない。セナはその双眸を見詰め続けた。
 ヒル魔の金髪の先から雨の雫が落ちる。雨粒はヒル魔の顔を伝い、鼻の頭からぽとりと
落ち、セナの額に落ちた。
 セナは瞬きを忘れた。今のヒル魔の目の色を、何と言えばいいのか分からない。
 薄い下唇の曲線を雨が伝う。それは留まった先でくるりと回る丸い粒となり。
 落ちた。
「雪光先輩!」
 モン太の声が響いた。ヒル魔の目が見開かれる。セナは振り向いた。
 雪光はふらふらとした足取りで、しかし一歩も立ち止まらずトラックまで歩いてきた。
ホロの中から手が差し伸べられる。大きな栗田の手、掌の大きいモン太の手、彼をねぎら
う仲間の手が。
 ぺしゃん、と水の音を響かせてセナの後頭部が叩かれた。
「ヒル魔さん…」
 ヒル魔は既に背を向け振り向きはしなかったが、左手の掌がそっとこちらを向いた。セ
ナは膝に、もう三歩だけ、と声をかけて走った。
「ヒル魔さん」
 開いた口に雨が降り込む。セナはそれを飲み込んだ。雨粒は優しく喉を流れ、疲労の淀
みへと降り注いだ。ヒル魔の一歩後ろで、セナはもう一度大きく息をついた。
 が、伸ばした指先をおそるおそるヒル魔の掌に触れさせた瞬間、その手は自分の手首を
強く掴み、え?、とセナが漏らしたはずの声も飲み込まれていた。
 冷たい舌。雨水の味。つられ慌てて爪先立つが間にあわない。顔を持ち上げる指が、頬
に食い込んだ。
 身体を支えているのはヒル魔の腕と、細い自分の爪先。が、その爪先も痙攣するように
濡れた地面を掻き、耐えきれずセナはヒル魔の腕に爪を立てる。
 ずるりと爪先が滑った。背中がトラックの側面にぶつかる。
 殺した荒い息が神経をざらりと撫でる。焦点を結んだヒル魔の表情は、雨と闇の中に暗
く浮かび上がった。薄く開いた口。唇をなめる舌。
 セナは俯いた。息をする肩が浅く上下する。
「俺は立ち止まらねえ」
 セナはまた一つ頷いた。
 顔を上げ、あの双眸と対峙する。真っ直ぐに見つめ返す。
「振り返りもしねえぞ」
「はい」
 応える声に淀みはない。
 ハイウェイを行く車のライトがヒル魔の表情の端を掠めた。
 吊り上がった唇の端から尖った牙が覗いていた。





cold fish :(名)冷淡な人
キスは蛇足かとも思うのですが。

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