ナンデモナイ・シンドローム雨が上がった。まだ水の匂いを含んだ風が西から吹く。ヘルメットとアイシールドの隙 間が風に鳴る。ユニフォームが雨の名残をまとう。 「見ろ、まっぷたつ」 モン太が指さす。セナは指さされた方向を見る。部室を出てきた小結がつられるように 上を見上げ、ぽかんと口を開けた。モン太がまっぷたつと言うように、空は彼らの頭上の 南北線を境に西が鮮やかな青空、東の空は暗い鼠色の雨雲が広がっている。 「ム」 小結が下を見た。足元の水溜まりにぽかんと空を見上げる自分たちの姿が映っている。 「ブフー」 小結は一言気合いを発すると二人を追い抜いてグラウンドに駆けていった。その姿は駆 けるというよりゴム鞠の弾む様に似ていたけれど。 「あ」 二人は同時に声を上げると、顔を見合わせ小結の後を追って走り出した。 しかし。 「あ」 「どした」 セナが立ち止まった。ヘルメットを外し、校舎を見上げている。モン太は隣に並んで同 じように校舎を眺めた。 「何だ?」 「うん」 「うん?」 目の前の校舎は西日を浴びて、壁が、ほんのり日の色に染まった白に光っていた。しか しそのすぐ背後に見える空は雨雲の暗い鼠色に沈んでいる。光に浮き立つ校舎の壁は、暗 い空に押されてこちらに迫ってくるかのようだった。 「あー」 モン太が嘆息を漏らす。 「ちょっと、すげえな」親指で鼻の下を擦って、付け加える。「珍しいことじゃねえけど」 「うん」セナもうなずく。「全然、珍しいことじゃないけどさ」 それでも少し、その光る壁と暗い空を見ていると、部室の方から聞きなれた「はぁあぁ ぁ!?」という声が聞こえてきた。 「ヤベ、セナっ」 モン太に急かされる前に、セナも慌ててヘルメットを被る。と、先に十文字が部室から 顔を出した。少し慌てふためいた様子の二人はすぐに目についた。 「何やってんだ」 尋ねるでもなく口をついて出た言葉は聞こえるような大声ではなかったはずなのに、太 い眉を吊り上げた赤毛が耳ざとく振り向く。 「なんでもねーよ!」 子供のような意固地さで言った後、二つの小柄な影は猛スピードで走ってゆく。 十文字はそれを見送り一言「はぁ?」と漏らすしかない。 なんでもない。 秘密を覆い隠す呪文のようだ。 その怪我どうしたの、セナ。なんでもないよ、まもり姉ちゃん。どうしたの、セナ、筋 肉痛? なんでもないんだ。自分がアイシールド21であることを周囲から隠すための呪 文。 ――あいつ、十文字? ――なんでもない。 あの雨の日も言った。なんでもない。本当になんでもないことだったから。ただ、雨宿 りをしていただけのことだから。 そんな雑念諸々も、練習中には浮かんでこない。強い磁力に引きつけられるように、身 体が、心が、魂が、同じ方向を一直線に目指す。気持ちがいい。 が、ユニフォームを脱いで、小早川セナに戻った時に、ほんの少し頭の隅を掠める「な んでもない」もやもや。 「ボケっとしてんな」 後頭部を銃尻で小突かれる。鉄の感触は、少し痛い。セナは後頭部を抑えて振り向く。 部室に人はいなくなっている。モン太は先にトイレに行って裏門のところで待っているは ずだ。広くなった分、人のいない部室は無人の雰囲気が強い。ヒル魔はこちらには背を向 けたまま手だけを捻って叩いていた。手にはリボルバー。 「あの、ヒル魔さん」 セナは汗に濡れたTシャツをバッグに詰め込み、少し躊躇いがちに声をかけた。 「…んだ?」 しかしいざ、ヒル魔の姿を目の前にすると、セナは未だに言葉がつかえる。この人とは 何を話せばいいのか分からない。話すべきことが分かっていても、時々、声の出し方が分 からなくなる。 あの、などともじもじしていると、今度は鬼の形相と一緒にリボルバーの銃口がこちら を向いた。 「さっさと言え!この糞チビ!」 「あっ、はいっ、だから、そのっ、この前、練習終わったときに言われたこと、聞き取れ なくて…」 「あぁ?」 「英語で、小声だったし。もしかして暗号だったら、でも、分かんなくて」 「あー……」 語尾を伸ばしながら、ヒル魔の表情はみるみる口の端が持ち上がってそこから牙がのぞ き、目が細められ、意地の悪い笑みに変わってゆく。 「あれはな」 不意にヒル魔はセナのネクタイを掴み、顔を引き寄せた。驚くも何も硬直したセナの耳 に押し殺した囁きが吹き込まれる。 「なんでもねえ」 手は突然、ぱっ、と離された。セナが動悸を速めている間にヒル魔はケケケと笑いなが ら部室を出ていった。 「えぇー…?」 セナはロッカーにもたれかかりながら、恐怖の余韻に頭をぼうっとさせていたが、外の 暗さに流石に我に返った。 「わっ…待たせっぱなし……」 バッグを担ぎ、電気を消して部室を飛び出す。空は西から東まですっかり晴れていたが、 すっかり夜の暗さが覆ってしまっている。星さえぽつぽつと顔をのぞかせていた。セナは 早速心の中でモン太への謝罪の言葉を唱え始めていた。そこへ。 「セナ」 さっきのヒル魔も怖かったが、この突然の声にも、セナは驚きすぎて声さえでなかった。 脚に急ブレーキがかかり、ぬかるんだ地面に滑る。辛うじて踏みとどまり振り返ったセナ を見ていたのは、こちらも少し驚いた顔をした十文字だった。 「あ…お疲れ様…」 と一応言ってはみたものの、そそくさと立ち去れる雰囲気ではなかった。目をきょろき ょろとさせるセナの迷いはすぐに十文字にも察せられたようだった。彼は手に持っていた ものを、前振りもせずセナに投げて寄越した。 「うっわっ」 どうにかキャッチしたそれは、立ち上がりかけたセナを再び当惑の中に投げ込むに十分 だった。ヘルメットだ。間違いなく二輪車用のヘルメット。だが、それを投げ渡されてな んとする。 「…え…?」 「乗れ」 「え、…ええっ?」 十文字の傍らにあるのは一台の原付だった。所々傷が入り、へこんでもいる。問題はそ の少しボロい原付に乗ることではなく、それを誘ったのが十文字という点だ。 否、これを誘ったのがヒル魔でも栗田でも、たとえモン太でもセナは矢張り驚いたに違 いないが。 「住所どこだ」 「雨太市本町…」 問われたのに素直に答えると、十文字は原付に跨りエンジンをかけた。 「…乗れよ」 踏み出す一歩は重かった。しかし十数秒後、原付は二人を乗せて走り出していた。 悲鳴はその後で響いた。 「あああっ、忘れてたっ!」 裏門前で待っているはずのモン太のことだった。 チッ、チッ、と何かを弾くような、擦るような音が過ぎてゆく。原付の車輪が水溜りを 跳ねる音だった。原付にしては速いスピードで走る。セナは初め十文字の制服を掴んでい たが、一つ目のカーブを曲がる時点で腰に手を回すしかなくなった。数分一緒に走っただ けで彼の中のスクーターのイメージが変わった。 十文字はそれから一言も、何も言わなかったが、ちゃんと雨太市本町まで送ってくれた。 セナは見慣れた風景が目に入ったところで、ようやく原付を止めてもらった。 「ありがとう。わざわざ、ここまで」 結局、十文字はここまでノーヘルだった。セナが返したヘルメットを被るのかと思いき や、彼はそれを座席の下に仕舞った。 「じゃあな」 低く呟き、十文字はすぐにも原付を発進させようとする。セナは慌てて引きとめた。 「送ってくれたの、何で?」 すると十文字は唇を歪め、セナから目を逸らし、ぶっきらぼうに言い捨てた。 「別に、なんでもねえよ」 セナが何か言う前に、十文字は原付を急発進させた。一瞬前輪が浮き上がり、タイヤは アスファルトの上に悲鳴を引きずりながら、あっという間にセナの視界から消えた。 セナは呆然とその後姿を見送った。消えるまでのほんの数秒ではあるが。そして歩道に ぽつねんと佇んでいた。急に、帰る道を忘れたかのように心許なくなってしまったのだっ た。 ようやく我が家に着いたとき、何故か練習直後以上に身体がへとへとになっていた。セ ナは部屋に戻るなり、床の上にごろんと寝転んだ。仰向けに寝転び、勢いづいた脚を振り 上げて空中でぶらぶらさせる。 と、ズボンの端の汚れが目についた。セナは脚を下ろすはずみで起き上がり、もう一度 ズボンの裾を見た。勢いのついた泥水が、跳ねて横切った泥の染みだった。爪の先で掻く と、乾いた砂粒がぱらっと床に落ちた。 「…なんでもないよ」 セナはこっそりと独り言を呟いた。 |