ハニービー達の交叉点は…






「ありがとう」
 案の定、顔には傷痕があった。
(A・ペレス・レベルテ『El club Dumas』)





 六月のダイヤ改正でいつも帰宅時に利用していた電車がなくなってしまった。単に五分
早い発車になっただけであるが、そのたった五分がセナとモン太の生活をほんの数日は変
えてしまったのだった。
 商店街に足を踏み入れた時には既に鼻先を雨の匂いが掠めていた。頭上の曇天がいよい
よ重く垂れ込め、灰色が不穏なほどに濃くなる。遠雷の音こそ聞こえねど、幾多の雨粒が
上空二千メートルで待機しているには違いない。活気ある一丁目の空気は人の口から発せ
られるものでなし、どこかざわめいていて、ざわめきはすぐに人の間を縫って走る二人の
高校生にも伝播した。
 レースは互角。しかし命運を分けたのは陽気な携帯電話の着信音であり、モン太が口答
えする前に若い母親は電話向こうで息子を怒鳴りつけ、今夜の食事の材料を買ってくるよ
う所望した。
「行けよ」と男気溢れる口ぶりで友人は言う。「まだ間に合うぜ」
「えー、でも……」
 でも、の後の、一緒に帰ろう、がすっと口を出ない。
「なーに、遠慮するな」
 まあ、この電車を逃せばしばらく待つし、また雨のせいで込むのも目に見えている。
 ごめん、また明日、とハイタッチ。生暖かい風の下、響く手のひらの音。気持ちのよい
手のひらの痺れを拳に握りこみセナは走り出したが、やはり迷いがあったものと思われる。
駅につく手前、喧しい重厚な金属音が向こうから近づいてくる。商店やビルの隙間から見
える向こうの電線が揺れ、すれ違いに過ぎてゆく電車の影。
 セナは足を止めた。それを待ち構えていたかのように、ざん、ときた。
 大粒の雨がビニールの庇を叩く。商店の軒下に雨宿りしながら、セナは幼馴染のくれた
折りたたみ傘を持って友人が来るのを待った。おそらく彼が傘を用意しているということ
はなかろうから、ここまで来たら一緒に傘を被って帰ろうとそう思った。
 商店街はみるみる水浸しになってゆく。そこここにできた水溜りを鞄を傘代わりに走っ
て帰る足が踏みつけ、飛沫を跳ね上げる。だから水音には別段、気を遣らなかったのだ。
やがてモン太の買い物袋を下げて走ってくるだろう方向に首を伸ばし、所在無く鼻からた
め息をもらす。ばしゃり、と水音。不意に冷たくなった足元。
 流石に顔を上げると、見えたのは遠ざかってゆく出前のバイク。反対に視線を落とせば、
濡れた右足、泥の跳ねた靴。
 しかしセナは腹を立てるでもなく、あーあ、と口の中で呟いて肩を落とした。不幸とは
手を繋いで歩いてきたような半生で、これは日常の挨拶のようなもの。怒りをぶつける先
も既に去っていったのだし、そもそもセナが人に怒りをぶつける、そう滅多にない。『パ
シリの真髄』にはおそらく、口答えしない、逆らわない、怒ったりなんてもってのほか、
という一節があるはず。
 諦めの溜め息。諦めの顔。しんと湿気の中に身体が沈んだかのようだった。ポケットの
中に手を突っ込んで、出てきたのはまもりのくれたハンカチ。ロケットベアが隅に一箇所
縫い取ってある。腰を折ってズボンの裾を拭う。
 隣で立ち止まった気配にはすぐ気づいた。それがモン太でないことも同じ瞬間に分かっ
ていた。見知らぬ誰かが、ハンカチで濡れたズボンを拭う自分を珍しげに眺めているのか。
視線がうなじにあたるのも感じた。しかし。
「大丈夫か?」
 その声は、存外に優しかった。
 優しかったのだ。心が湿気の中から顔を上げたようだった。
 セナは自然に浮かんだ微かな笑顔と一緒に、素直に
「ありがとう」
 と言った。
 声を聞いたときには、気づいていたのだろうか。分からない。予感はあったのだろうか。
ならば何故、予感などした。ただ腰を伸ばして、少し見上げた先にある顔には十字の傷痕
があったのだ。
 しかし目が合った途端に、果たしてこの後どうすればいいのか困惑が広がり、セナはど
もり気味にもう一度「あ、ありがとう」と繰り返し、俯いた。十文字も何も言わず、両手
をズボンのポケットに突っ込んだまま、だらしなく立っていた。
 雨の音が更に激しく叩きつける。古いビニールのどこからか漏れてきた雨水が、ぴとり
とセナの肩に落ちた。しかしセナは動けなかった。十文字の方に近づくことも、逆に離れ
ることもできなかった。肩には雨の染みが広がった。
 気のせいか十文字の様子は悠然として見えた。一学期最初の確執もなかったかのように、
ただ隣に佇み商店街を覆う雨を眺めている。が、セナは未だにこの男と会えば心のどこか
が震えるのを否めない。これまで二度、コンビニで起きた奇妙な出来事も、その真意の知
れなさが微かな震えをより細かいものにした。
 出会いは最悪だった。最悪だったけれども、最近起こり始めたこの兆しは、果たして何
か。何の兆しなのか。
 考えるほどに、隣にいるのが苦しくなる。肩はもう肌に濡れているのが分かるほどにな
っている。
 と、全ての音を押しのけて、一つの足音が聞こえた。豪快に水溜りを蹴散らす元気のよ
い足音。そして買い物袋のビニールのガシャガシャいう音。
「あ…!」
 思わず声を出して手を上げたところ、相手も、濡れているくせに顔をぱっと明るくして
「おー!」
 と返す。セナは折り畳み傘を開きながら雨の中へ出た。と、視線。
「あ」
 振り返ると十文字はつまらなそうな顔をふいと背けて、踵を返した。
「あ……」
 目が背中を追い、心も決まらず言い淀んでいる間に、同じくチビな彼の親友は傘の中に
入ってきている。悪ぃ悪ぃ。セナ傘持ってたのか。助かったー! が返答のなしに訝しみ、
急に黙って、表情豊かな太い眉がしかめられた。
 セナは苦笑して
「なんでもない」
 と言った。
 なんでもない、と言ったことを実は後悔していると、気づいたのは玄関先でモン太と別
れてからだった。そんな気分にたまらなくなって、セナはモン太の背中に向かって大声で
「またねーっ!」と声をかけ大きく手を振った。
 モン太は振り返ると満面に元気一杯の笑顔を浮かべて両手を大きく振った。
 セナの貸した傘も一緒に揺れていた。






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