ビート・オブ・ザ・スカイ






 ゴォォォ、と髪の先から頭蓋、鼓膜から遠い記憶を揺さぶる飛行機の音は、はるか上空
から数秒の時差をもって地上に到達する。見上げたとき、彼の頭上に機影はなく、眩しい
太陽光を手庇で遮りながら音の去ってゆく方角を探せば、青空の端に白い小さなものが、
まるで針の先ででも描いたかのように行くのであり、見つけた彼は遠ざかるはるかな轟音
と共にそれを見送りつ、かすかに置いてけぼりにされたような胸の風を感じるのだ。
 セナは顔を上げた。ゴゥゥン、ゴゥゥン、と余韻の残る、しかし直に頭蓋に、背骨に響
くような機械音は、まるで彼に言い聞かせるような強い響きでもあった。デビルバットの
丸い影の後に続いて揺れる横断幕が空を占める。今夜の日米決戦、そしてアイシールド21
の文字。
 七月二十日、学生達が律儀に朝の列車に乗る最後の朝。駅舎を出た人々も皆、空を見上
げていた。かすかなざわめき。
 アメフト?
 アイシールド21だって。
 アスファルトの上を軽快な足音が響く。セナは空を見上げたまま強く足踏みをする。気
がはやってたまらないのを地面にアースしているかのようだ。
 と、その肩がぶつかる。新たな人々が間をおかず到着した電車から吐き出される。セナ
は相手の顔も見ず慌てて謝り、脇へどこうとしたが、その腕は不意に掴まれた。
 その手の強さを知っている。慌てているから妙に力が入っている。少し痛いほど。
 その気配を知っている。焦りと慌てとで混乱している。しかしそれはセナも御同様。
 その御同様の気配を、ここ数日とセナは避けてきたのだから。
 十文字の気配には敏感になっていようというものである。
 セナは顔を上げたが、視線まではしっかりと上げる勇気はなく、妙にそっぽを向きなが
ら自身のない声で「おはよう…」と弱々しく言った。
「…よう」
 十文字も姿を見かけ肩を叩いたが逃げようとされ、腕を捕まえたはいいがコミュニケー
ションは全くの見せかけである。己で解決法を見出しがたく感じている。
 あの雨の日のように、辺りに誰もいなければ少々強引な手に出てでも、と思ったが生憎
の通勤通学ラッシュ最終日だ。しかし。
 俯き加減の跳ねた黒髪。果たして強引な手になど出られただろうか。
「セナ!」
 人込みの向こうから一層張り出すような声が聞こえる。猿のように跳ねて自己アピール
をする赤毛の少年は見慣れたセナの親友であり。
 救世主、か?
 セナは十文字の腕を払って走り出す。人込みを見事なまでに抜け出し、赤毛の猿と一緒
に人込みを脱出成功。きっと、もう十文字の目にその後姿さえ見えてはいまい。
 空には、ゴゥゥン、と少し遠ざかったバルーンの空行く音。
 置き去りにする。


 また逃げたんだ、と今度は相手の後姿を見て思い出した。
 ゴォォォ、と熱風を巻き上げて、広々と広がる滑走路をジャンボジェットが飛び立つ。
 数日前はこれをガラスの内側から見詰めた。生まれ故郷の日本の地から。初めて立つ国
際線の空港から。
 泥門デビルバッツの面々はガラス越しに聞こえるジェット音と空港独特の静けさに似た
ざわめきに包まれて、未だ現状認識をし難い表情のまま佇んでいる。
 例の悪魔だけは妙に楽しそうで、さっさとしやがれ糞チビども、と背中を蹴っ飛ばして
くるので、それに急かされるうちにさくさくと搭乗手続きは済んでしまう。
 気づけば搭乗ゲートは目の前であった。
 悪魔の長い足に背中を蹴られて、栗田の巨体が弾むように機内に転がる。
 後を追うように数分の一縮尺の体型を持った小結が転がり込む。
 ケケケと不吉な笑い声を残しながら悠々と歩んでゆくのはかの悪魔で、馬耳東風は先刻
承知だがしかし、といった風にそれをたしなめつつ追いかけるのが姉崎まもりだ。
 雪光は額の光具合も弱々しく、手にはしっかりと酔い止め薬の袋をお守りのように握り
締め、視線を真っ直ぐ前に据えて歩き出す。
「マジかよぉぉ」
 と声を上げたのは黒木だが、隣の十文字はもう歩き出していた。
「家にいてもうぜえだけだろ」
 先ほど売店で購入したジャンプを小脇に、黙って戸叶が続く。
「まーじでー」
 後を追う黒木は声を上げるが、根がオドケ体質なのか、開き直り気味に明るく響く。
 モン太がセナの腕を引く。
「おい、セナ」
「あ、うん……」
「グズグズすんな!」
 機内から悪魔の一喝。慌てて乗り込む。
 轟音の只中にいた。轟音の上に自分が乗っていた。轟音と共に海を越え。
 今、この轟音と共に海を越え日本へ帰る道を自ら断った。
 破り捨てた航空券が紙ふぶきのように熱風に巻き上げられる。
 腹が減っては戦はできぬとばかりにダイナーを目指して歩き出す。食事と聞くと、どぶ
ろくの後について歩く栗田と小結の身体が嬉々として跳ねる。飛行機からは、まもりが慌
てて降りてくる。
 セナはぱっと弾かれたように走り出した。先には十文字の背中。
 待てよ!というモン太の声を背に走る。
 背後では飛行機がゆっくりと動き出す。
 下から巻き上げ、足元から根こそぎ攫ってゆくような熱風。轟音。
 今度はこの轟音を置き去りにして、
「僕が行く」
 十文字の隣でセナは囁く。巻き上げられた熱風に驚いた十文字と目を合わせる。
 セナは相手の目を見詰め、しっかりと口にした。
「僕から行くから」
 笑ってみせた。
 目が合った。もう逃げない。
「待てよ、セナ!」
 後ろからモン太が追いかける。セナは本気で走り出す。まもりを追い越す。ヒル魔を追
い越す。雪光を追い越す。小結を追い越す。栗田を追い越す。どぶろくを追い越す。
 先頭に立つ。
 モン太が追いかける。ふ、と十文字が走り出す。黒木と戸叶がそれに続く。いつの間に
か皆が走り出す。
「ムキャー! 待てー!」
「待って、セナ!」
「ケケケケケ」
「待ってよ、セナくーん!」
「ブッフー」
「セナ!」
 十文字が呼ぶ。
 セナはスピードを上げる。今度は捕まらない。捕まる前に僕が行く。
 僕から行く、この気持ちのもとへ。
 ゴォォォ、と背中を震わす轟音を、はるか青空に置き去りにして。






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