寂寞心中雨行強い風がドォォォォ…と空に音を轟かせて吹きすぎる。セナは打ち付ける風に目を瞑っ た。湿気を帯びた風に髪が顔に張り付く。それを手で払いながらゆっくりと目を開けると、 下の方からじわじわとした唸りが上がった。唸りは徐々に高くなり、やがてそれがツクツ クホウシの鳴き声と分かる。強風に流れる灰色の斑な空に、その声は夏の青空を懐かしむ ように響いた。 「風なんて」 不意に遮るように声がかけられる。 「キリがねえぞ」 再び吹く風。ただ一方向に吹くのではなく、壁に跳ね返り、急に角度を変えて吹き上げ る。プールの青い水が高く波立って、プールサイドで白い飛沫を上げた。さらに高巻く風 の轟音。風はフェンス越しにセナの髪をなぶる。いつものつんつん立った癖毛も乱れ放題 に乱れ、ばさばさと四方八方好き勝手に跳ねている。 屋上から見下ろした景色はラッシュで車のつかえた阿隈街道と、その寂れ具合が灰色の 空と妙にマッチしてしまった二丁目商店街。御用達のソンソンのある一丁目商店街は天気 のせいか、妙に霞んでしまっていた。 セナはぺたんと腰を下ろした。隣ではヒル魔がガムを噛みながらラップトップで何かを いじっている。英語がたくさん並んでいるのは分かるが、一体何をしているのかセナには 見当もつかない。 (別に一緒にいなくてもいいんだよね…) しかし立ち上がろうとすると、ヒル魔の目だけが動いてきろりとセナを睨みつける。い や、目だけの無表情な動きは別段睨みつけているものではなかったのだが、しかしセナは 睨まれている、と感じる。結局動けない。 セナはゆっくりとフェンスに背をもたれると、流れる空を見上げた。今にも雨を降らせ そうな濃い灰色の雲とその上の薄明るい白に近いグレーの雲が溶け合い混ざり合い北へ流 れてゆく。 雨、降らないんでしょうか、と尋ねようとして、ヒル魔が屋外でパソコンをいじってい るくらいだから降らないのだろうと納得する。そのとき顔は既にヒル魔の方を向いていた が、結局何も言わないまま、もう一度空を見た。 ジー…っと最後の一声を残してツクツクホウシの声が止む。 暗い灰色の空が停滞している。雨脚はそれほど強い訳ではない。しかし小雨でもない。 少しでも傘なしで佇んでいれば、すぐにずぶ濡れになった。 二人でずぶ濡れになった。 鞄の中に仕舞われたラップトップは濡れないのだろうか。あの中には多分銃も入ってい るはずなのに。 (いつか花火も入ってたよなあ…) 春のことだ。早朝の空や、試合終了後の明るい空に咲いた花火は非常識だったが、今で も思い出す。雨の中でも、思い出す。 (ヒル魔さん…) 何故、手を繋いで歩いているのか、分からない。雨に濡れた冷たい手の指先が、ほんの 少し曲がってセナの手を鉤爪のように引っ掛ける。そこから考えていること全て伝わりそ うな気がして、セナはひたすら俯いて歩く。阿隈街道は車で渋滞しているが、歩道には全 くといっていいほど人がいない。SF映画の、この世の終わりの景色のように。 (ヒル魔さん…) 考えていることが伝わりそうで、頭をなるべくカラにして歩こうとしていたが、考えよ うとすまいとすればするほど、その名前は繰り返された。 (ヒル魔、さん…) 今が世界の終わりなら、これからもうアメフトはできない。でも世界の終わりなら、誰 も見ていないのだからきっと今のこの手を恥ずかしく思うこともない。世界の終わりに雨 が降っていれば…。 不意にヒル魔が立ち止まった。金髪が濡れて少ししなれた髪の先から水滴が垂れている。 「セナ」 今が世界の終わりなら、ヒル魔が自分をこう呼ぶのも当たり前に思われた。そして自分 が強く手を握り返したのも道理だと思った。世界の終わりの雨は冷たくて、しっかりと触 れていないときっと自分も死んでしまうから。 冷たい雨に打たれ続ければヒル魔も死ぬのだろうか。 「ヒル魔さん…」 「何だ」 「どこまで行くんですか」 ヒル魔が口にした場所の名前をセナは聞き取ることはできたけれども、言葉にすること はできなかった。多分ヒル魔はセナの知らない世界の果ての名前を口にしたのだ。 「雨…」 セナは少しだけ破顔した。 「止まないといいですね」 どこかで音楽の最後の切れ端が流れていた。止まってしまった車の群れとすれ違いなが ら、二人の足は止まらずどこまでも歩いてゆく。十七時間後、彼らが自転を続ける世界に 帰ってきて、あのとき街に流れていた音楽をショパンだと教えてくれたのは雪光だったけ れども、それはまた別の話だ。 |