残夏ジオラマ






 買ったばかりの気に入ったCDをうっかり翌日貸してしまい、そうだ、昨日の今日で早
速貸してしまったのだ、戸叶はセナの乗って帰った電車を高架の上から見送ると、ぽっか
りと頭をカラにして空を眺めた。
 つもりだったが、カラの頭に繰り返すのは貸したCDの三曲目ばかりで、しつこさは売
りだが、未練がましいのは性に合わんと思った。それでもどこかでループを繋いでしまい
尻尾をなくした音楽はぐるぐると頭の中を回り続ける。空には高く、円を描いて飛ぶ鳥が
いる。羽ばたく様子もなく、風に乗って舞う、鳶か。まさかこんな街中に。しかしそいつ
は遥か天上を綺麗な円を描きながら…。
 ふと、十文字を思う。あいつがセナから離れたがっているのは知っている。触れたがっ
ているのも分かる。この時代の若者で、純情めいて好きだなどという言葉は口に出すのが
憚られるが、(好きだ、だとよ。この甘酸っぱさ百パーセントの感情は真に実在するのか
ね)、しかし十文字を見ていれば。
 未練がましいのは性に合わないが、それでも想わずにはいられない。
 三曲目を口笛で吹いた。難しく、調子が外れた。そこへかくれんぼの鬼よろしく自分を
探していた黒木が駆けてきて、早速自分の口笛を笑ったが、いっそ気が楽で自分も笑った。
 黒木は妙な顔をして笑うのをやめてしまった。


 借りて一年八ヶ月になるCDを実は起きぬけに踏んで割ってしまったことを一年五ヶ月
の間、言えないままでいる。黒木の話である。中古屋でそのCDを見つけた。意外と安か
ったのでこれを買って誤魔化そう、と芯から思った。
(なんせ、卑怯がモットー…)
 それでもキャッシャーに持っていけず、そのまま店を出て、いつものレコ屋に行く。同
じCDが三倍の値段だ。
 それも棚に戻して店を出ると、通りをやたら視界を塞ぐ存在が移動していて、目を凝ら
してみるまでもなくそれが焼きたてのパン(でかいメロンパンだな…)を袋一杯、両腕に
大切そうに抱いた栗田と小結だったりする。無視できず見ていると向こうから気づいて、
おおいおおいと手を振る。パンの詰まった紙袋が危なげに傾く。
「やあ、どうしたの」
「別に…」
「これ美味しいんだよ、一つどう?」
 遠慮をする。残る暑さに、焼きたてのパンを欲する食欲はない。栗田はあっさりと、そ
う、と笑い、美味しいんだよあそこのパン屋さん、と来た方向を振り返る。
 黒木はひょいとその隣を見下ろした。小結は栗田と同じくパンの袋を抱いていたが、そ
の視線は同じ方向を向いておらず、黒木と黒木の背後のレコ屋のポスターだらけの入り口
を見比べている。
 いつもの「フン」がなかった。
 小結がじっと見てくるので(ナンだよ…)睨み返していると、この目をまじまじと見詰
めたのは初めてだと気づく。黒くて小さな目だった。
 大小の達磨が仲良く去っていった後で、黒木はレコ屋に逆戻りし、CDを買った。
 3059円は、懐に響いたが、黒木はにやりと笑って戸叶の家を目指した。


 部屋の前に蹲る影があって、まさか家族ではない、じゃあ待ち受け強盗、迷子、幽霊、
黄昏時のアヤカシの、まあ、残暑っていうくらいだから、まだ夏の風物詩が残っててもお
かしくねえんだろうな…と考えつつも警戒心なく近づくと、黒木が顔を上げて、遅ェよ、
と愚痴を垂れる。
 風が涼しくなってきたので、そのまま隣に座り込むと、鼻先に新品のCDを押し付けら
れた。(ああ、やっぱ二年くらい前に貸したやつ、割ってやがったな…)。
「別によかったのによ」
「でも、お前、怒るじゃん」
「嘘つかれたり、黙ったままにされたらな」
 う、と黒木が詰まる。
 ポータブルのプレーヤーを鞄から出し、聞く。指折り数えた。一年八ヶ月ぶりだ。
 一年八ヶ月ぶりの音色は頭の中から三曲目のループを綺麗さっぱり掃除してしまった。
戸叶の足は自然とリズムを踏む。隣で黒木がつまらなそうな顔をしてずるずる背中をずり
落ちさせた。
「ほれ」
 戸叶は不意の速さで黒木の耳にヘッドホンをひっかけた。
「わっ…」
「お前はどれくらいぶりだよ」
「…一年五ヶ月」
 よくもまあ良心の呵責に耐えたものだ。
 アルバム一枚終わる頃、日はとっぷりと暮れた。


 セナは繰り返しCDをかける。エンドレス。途中で三曲目を七回連続聞いた。モン太と
スポーツドリンクのCMのテーマ曲話をしていると、これだろ、と頭の上からCDが差し
出された。見上げると戸叶で、貸してやろうか、という言葉に素直に甘えた。ありがとう、
ときちんと振り向いて言うと、視界の端に十文字が映った。
 あの日以来、話していない、十文字。
 すぐに目が逸らされた。心臓にぎゅっと力が入る。舌が縺れそうになる。(今、ありが
とうってちゃんと言えたよね?)。あの雨の日の架橋でのように、痺れてしまう。
 セナは曲半ばでCDを止めた。今まで気に入って聞いていた三曲目がみるみる色あせて
ゆく。音が消える。違う、違う音に支配される。雨音。駄目だ、彼の声が聞こえる。あん
なことをされて、結局、文句も言わないまま、まして一発殴るなんてもってのほか、あの
まま別れて黙って家に帰った。
 だってキスなんて。
 三曲目をスタートさせる。イヤホンを耳に突っ込み、最大音量で。何もかも消し去るよ
うな音量で。口に出して歌おうとすると、喉が酷く渇いていた。


 乾いている、飢えている、満たすように水を飲んだ。
 十文字は。
 眠れないのは頭の奥に雑音のような、ひっきりなしに響き続ける音があるからであり、
いざまどろもうとするとそれが悲鳴のように頭に響き渡っては邪魔をするのだった。覚え
た作戦を頭の中で復習し、アメリカでの日々を思い出し、不良だったときの喧嘩三昧を一
つ一つ数えていって、それでも心が落ち着かないところ、最後、不承不承といった体で十
文字はセナを思った。
(待てよ、セナ!)
 何故かセナの背中ばかり思い出す。それに手を伸ばす。届かない。もう一度手を伸ばす。
届かない。それを繰り返す。繰り返すその端が段々熱を帯びる。そこここが発火する。黒
く焦げて穴が開く。また雑音が聞こえる。くそっ。
 大声を上げてTシャツの背中を掴み引き倒した、瞬間、目が覚めた。開きっぱなしのカ
ーテンから射す朝日が顔を焼いていた。暑い。
 また学校へ行く、一日が始まる。






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