エヴリタイム/サマータイム





 この曲を聴いて思い出すのはコイントスと夏の匂いと鉄錆の浮いた外付けの階段。ポー
タブルCDプレーヤーから流れるこの曲はダイレクトに周囲風景と結合し、十文字の瞼の
裏にはいつも午後七時を過ぎた夕暮れの空が広がる。鼻から抜ける覚えたてのアルコール
の炭酸。空き缶に詰め込んだ煙草の吸殻。
 十文字は外付けの階段の中程に腰掛けていた。だらしなく放り出した足が音楽にあわせ
て時々揺れていた。
「…から、きゅーけーきゅーけー」
 ドアの開く音と共に黒木の声が飛び出した。
「な、十文字もそーだって」
「何が?」
 十文字は振り返る。黒木は後ろに手を振りながら階段をドタドタとだらしなく下り、
「きゅーけー」
 と笑った。十文字が何回目の休憩だと呆れるにも構わず黒木は、手を伸ばして十文字の
胸ポケットから煙草を取り上げた。一本無断拝借し、それが当然のように後ろを振り返る。
「火がねえ」
「…るっせえなあ」
 些か疲れた面持ちの戸叶が裸足に靴をひっかけて猫背気味に自宅の部屋から出てくる。
築何十年か分からないアパート、戸叶の家の入ったアパートの外付け階段がこの記憶の舞
台だった。
 戸叶は十文字の後ろに座った黒木の更に二段上に腰掛け、腕を伸ばしてライターの火を
近づけた。風のない中、ライターの火は真っ直ぐ立ち上がり、そのまま夕焼けに溶けるよ
うだった。
 中三の夏のことだ。せめて義務教育課程の修了に漕ぎ着けようと、そこまで目標持って
いたわけではない。が、夏の終わりのその日、三人は戸叶のアパートに集まり、数学を黒
木に教えていた。何故そんなことを始めたのか、その理由を今では全く思い出せない。
 十文字は戸叶のCDを勝手に聞きながら、たらたらと夕陽の垂れるようなゆるい洋楽に
身体を預けていた。戸叶は何も言わなかったが、ゆらゆらと足を揺らす自分に新たにビー
ルを寄越した。少しぬるくなったそれを喉に流し込むと、後ろから黒木の手が伸びて、再
びの無断拝借。半分飲んで、返される。
 この曲を聴いて思い出すのは、そんなとろとろした夏の夕暮れだ。鉄錆の浮いた階段に
アルコールの回った身体をもたせかけ吸い込んだ空気は熱せられて、酔った頭を程よく蕩
かせていた。


 ふと、顎のあたりに視線を感じた。さっきまで試聴機に向かっていたセナが、いつの間
にか自分を振り向いている。控え目な好奇心の色を映したセナの視線は、ひどく居心地を
悪くした。
 レコ屋の外はすっかり日も暮れて、雨さえ降っている。しかし天井のスピーカーから流
れるこの曲は、十文字をあっと言う間に一年まえの夏に引き戻した。一年だ? まるで遠
い昔の出来事のようだ。
 と、今度はこめかみに視線。これは知っている。戸叶だ。しかしその視線はすぐに向き
を逸らし、十文字を見上げているセナの肩を叩いた。
「こいつ、この曲好きなんだ」
「え?」
 セナが驚いて戸叶を見たが、十文字も驚いた。別に好きな訳では。
「な?」
「あ?…ああ」
 振られて、思わず肯首してしまった。何やら含むところのある戸叶の笑いに、すぐ、し
まった、と思うが遅い。
「何て曲?」
「Tレックス、コズミック・ダンサー」
 口を半開きにしたままの自分に代わって戸叶が答える。すると後ろから「ジュラシック
パーク?」という声がステレオで聞こえた。黒木とモン太がそろって振り向いている。
「これなら俺がCD持ってる。聴くか?」
「無視かよ!」
 戸叶は後ろから入る漫才じみたつっこみも無視して、セナと後日CDを貸す算段をつけ
る。
 この曲が好きか、だと。階段の鉄錆。アルコールの味を覚えた頭。口の中の煙草の味。
焼けた空気の匂い。セナには知られたくない。今更だと分かってはいるが。
 急にセナの耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。セナは自分を見上げ、はにかむような微
かな笑みを浮かべていた。






T-REX「COSMIC DANCER」は映画「リトルダンサー」主題歌。


ブラウザのバックボタンでお戻りください。