モノカキさんに都々逸五十五のお題
風の流れるような場所のない、都会での話であるから、声が流れるも、気配を感じるも 道に沿って知れるようである。煙草銜えて、ぶらりと行けば、行き着く先に奴がいやがる。 随分と辛気臭い顔じゃあないか。 遅い夕陽が照らす下、戸叶は歩道橋の上を見上げ、ぱたりと雑誌を閉じた。小脇に挟ん だジャンプの重みも馴れたもの。ただ、あのような顔は見慣れぬ。ひょこりと上った階段 の先、その口に煙草の銜えられていないのが不思議な程、十文字は力なく手摺にもたれて いる。色の付いた眼鏡越し、見える顔色が間違いでなければ目の下に刷いた奇妙な朱。 「よう」 その一言がこの世でも動かしたかのように十文字の肩が震えた。 「お」 戸惑ったような声音を耳の右から左に聞き流し、隣に並ぶ。 「ンで帰ってねえんだよ?」 「そりゃ俺の科白」 十文字の目がだるそうな動きをするものだから、戸叶の気分もそれに引き摺られるかの ようにふらりと緩む。ポケットに手をつっこんで煙草を探したが、大工の親爺に焼却炉に 捨てられてより、あの匂いとも随分ご無沙汰だった。指先に始終触れていた狭いポケット に突っ込んだボックスの紙のへしゃげ具合も、漫画雑誌の粗い紙の触りに次いで馴染み深 かった感触も失われて久しい。 そう言えば最初に自発的な禁煙を始めたのはこいつだ。戸叶はちらりと隣の男を一瞥し、 肺の奥のヤニの匂いを掻き立てるように深く息をつく。 手摺に背中を預け、首を捻り歩道を見下ろせば会社帰りの人並みが、バス停へ向かう、 タクシーを待つ。背広の集団に目を据えたまま、口の中でぼつり、 「あ、セナ」 小さく呟いたその言葉に可笑しいほど反応した十文字に、もうかける言葉もない。 「嘘だ」 「てめえ………」 大きな道の只中真上に、街中見渡すかのように佇んでいるのに、あの気配、きっと十文 字が見落とそうはずもない。それを簡単にかかった罠の、可愛らしさ、少し呆れ、が少し 微笑ましくなくもない。 「セナがどうかしたか?」 「はあ!?」 むきになるない、余計に可笑しいじゃねえか。くつくつと笑う声が抑えられず、ケッケ ッケッと口をつく。奥歯を噛み締め、泳ぐ目の宙、機嫌は完全に損ねたようだ。 ああ、大型の車が通る。コンテナを牽引した車の轟音。波のように迫り、 「いとしいとしと言う心、ときた」 通り過ぎる。 砂煙が舞い上がり、十文字が咳き込む。戸叶のサングラスの上にも埃が舞う。視界に霞。 春でもあるまいしよ。 「おい」 手を伸ばす、腕は半袖、もう夏じゃねえか。 「何かついてる」 意表を突かれた十文字の素直な顔。そんな顔、不良の間は見せるなよ? 「…んだよ」 「糸だ」 戸叶は目に見えぬ糸をふいと風に乗せて飛ばした。 十文字は下唇を突き出し不機嫌そう。不可視の糸を肩から払い、一言。 「帰る」 と背を向けた。 ゆらりと逃げ水のように気配が去り、帰るの一言、その残響も歩道橋から滑り落ちて車 の流れに紛れ、もう聞こえない。 さて独りになって小脇のジャンプを取り出したが、もう肉眼で見える時刻ではない。空 の端に濃い朱を残して空は暗く紺青に星が瞬き始める。戸叶は一人で苦笑い。 「恋なあ」 舌の上に乗せたらば、この言葉、いたく恥ずかしい。まず、俺の柄ではないようだ。 ジャンプを再び小脇に挟み、ひょこりと下りた先に黒木がいた。 「よう」 二人でしばらく歩いた。 |