塩素/初夏





 水の中。
 青い水。人工の水。
 直方体の二メートル底で見た、ゆらゆらと揺れる強烈な白の光。
 コンクリートで固められた底を蹴って、吐き出した銀の泡を追いかけるように。
 空気。空気。空気!
 一生懸命に藻掻き。
 水の底を綺麗だと思ったのは一瞬だけだ。
 底に沈んだ、一瞬だけだ。
 プールサイドで独り咳き込む。背後には自由時間を楽しむクラスメートの歓声が遠い。僅かに涙が
浮かぶ。大丈夫、ただ苦しいだけ。
 細い腕で身体を支え、するりと水の中から抜け出る。焼けたコンクリートの上に腰を下ろす。熱い。
けれどももう立ち上がれない。色とりどりの水泳帽。鳴り響く鐘のような歓声。青い水面に閃く照り
返し。疲れ果てて目を瞑る。
 その時にかいだ匂い。
「……ヒル魔さん」
「ああ?」
 思わず呼び止めてしまった。
 数日振りに青空を見た午後。温度が急に上がり、何だか蒸し暑い。梅雨入り宣言はまだだが、きっ
と今日辺りにテレビで言うのではないか。校庭は泥濘みだらけで、まだ運動部の姿は見えない。
 それを廊下から眺めていたら不意に後ろから罵声に近い感じで名前を呼ばれ、もう誰かというのは
分かりきっていることだけれども、振り向いたら案の定ヒル魔が立っていた。彼は今日から練習再開
の命令と準備を申し渡し、長いコンパスでさっさと立ち去ろうとしたのだが、ふと記憶にひっかかる
匂いをかいだセナが呼び止めたことで、少しだけ奇妙な沈黙が廊下に流れた。ヒル魔の姿にギョッと
した生徒が慌てて教室に引っ込み、ドアがピシャリと閉まる。廊下にはいつの間にか二人きりになっ
ていた。
「ええ、と……」
 突然できあがった奇妙な状況に言葉を濁すと、ウジウジした気配を察したヒル魔の表情がまた険し
くなる。うわ、そんな大したことを言おうとした訳でもないのに……。
「ンだよ、早く言え」
「あ、あの……今日、プールだったんですか」
「何?」
「塩素の匂い、したんです。もうそんな季節かなー…って」
 そう言うとヒル魔が黙り込んだ。彼が黙り込むのは、何か言われるよりも緊張する。
 不意に手が伸ばされた。セナは思わず首をすくめる。
 まだ慣れない、この短い距離。腕が伸ばされ指先が触れるだけの短い距離。
「……あ…」
 指先は触れずに鼻の数センチ先で止まっていた。
 緩く伸びた肘。触れるために伸ばされたのでもない、軽く曲げた指。この人、指細い。間近でみる
たびに思う。細くて長い指。この指は触れない。
 ヒル魔は触れない。
 拉致られたり縛られたり蹴られたりはあるけれども、触れないのだ、この人は。
 別に恐れる訳ではないのに、緊張が解けない。
 触れない指。鼻の先。
 あ……。心の中で小さく声を上げる。さっきの戸惑いの声とは違う、記憶の引っ掛かりが引き出し
た声。
 懐かしい匂い。人工の水。青く透き通った。二十五メートルの直方体。
「…塩素の……」
 顔を上げる。ヒル魔は笑いもしない。ただ身長差の分を僅かに見下ろして。
 その手は触れない。
 ヒル魔はくるりと踵を返し、スタスタとセナの目の前から去ってゆく。
 塩素の匂いだけが、鼻に残る。
 窓の外の空はプールの水のように青く明るい。夏は近い。



       ↑ and mirror ↓



 短い距離を、測る。相手が恐れない距離であり、尚且つ自分が満足を得られる距離。何より一番効
果的な距離。
 セナが怯えることなく受け入れることのできる距離。
 それは未だに測り難い。
 手を伸ばせば、思わず目を瞑る。だから触れずに待つ。セナが目を開けるまで。
 それは時間をかけた丁寧な行為のようだ。
 苛立った。
 恐る恐る目を開ける気配はあったが、くるりと背を向け大股で立ち去る。
 今までも何人と数えられない人間に傷を負わせてきた。これからもそうするだろう。これは処世だ
けではなく、生きる楽しみだ。
 しかし。
「ヒル魔さん」
 慌てながらも躊躇いがちな声が呼び止める。
「あの…」
 振り向かずにいれば、セナはきっとこのまま口籠もりうなだれるだけだろう。
「…んだ?」
「あの…今日、水泳あったんですか?」
「は?」
「えっと、いえ、塩素の匂いがしたから」
 そう言ってセナは眩しそうに目を細めた。廊下に射す日はそれほど明るい訳でもないのに。
 もう一度、手を伸ばす。今度は目を瞑らなかった。慎重さの分見下ろす目からは視線を逸らし、鼻
の先で止まった指を逃げるように見つめる。
「…塩素の…」
 セナはうわ言のように呟く。
「僕…プールで溺れたことがあって…」
 居心地が悪そうだ。自分が何を言っているのか…混乱しているのだろう。
 サッ、と手を伸ばす。髪に触れ、かきまわす。セナが驚いて見上げた。目が合う。
 消えない傷に、なってしまう。





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