STRANGE




 死神同伴は困ります、と聞こえたので、リュークを振り返った。面白くないね、
と言うと死神は頷いて応える。困る。そのとおりだ。しかし白い髭をたくわえた
紳士は、どうにもなりません、としか応えなかった。
 代わりに与えられた真っ赤な毒林檎を手にリュークは空へ舞い上がる。尖塔の
屋根にガーゴイル然として座れば中々様になった。
 重い扉を開いて月は館の中へと導かれる。玄関ホールの向こうはまた扉。それ
を開くと煌びやかなシャンデリアの光が眼球を射した。
 広間の中央には細長いテーブルに椅子が二脚。長い長いテーブルで、ボーイが
ビーダーマイヤーで御座いますと説明するのも胡散臭い。椅子は両端に向き合う
ように一脚ずつ。明滅を繰り返すシャンデリアの下を月は東の椅子に促された。
美しい布張りの、猫足の椅子。肘掛の感触を掌で楽しむ。
 南北の窓は整然と十三枚ずつ。どれも曇りなく磨き上げられているが、如何せ
ん映すのは闇ばかりで、それでものめのめとした闇の黒が光るようだから面白い。
 シャンデリアはしきりに明滅を繰り返す。ネガとポジを繰り返すモノクローム
の光に目を毒されそうだ。然らば目の毒はあっと言う間に心臓に達し、七秒で全
身を巡った。
 重々しく扉が開いて、乳母車にしゃがみこんだ男が白髭の老紳士に押され、や
って来る。アルファベットを一字、名に戴いた男。仮の名を流河と差し出した男
は正面の椅子に促される。まるでそれが不自然な動作であるかのように男は乳母
車から降り、椅子に座る。一瞬、裸足の足がシャンデリアに照らされた。
 羊皮紙のメニューはフランス語で書かれている。人差し指で指差し、シチュー
を注文。ボーイはテーブルの反対側まで歩いていくと男――希望に添って流河と
呼ぼうか――の注文を耳元で聞く。流河の囁きはここまで聞こえない。
 ボーイが去った後の空気は気詰まりと言うより散漫として、まるで時間が虫食
いにあったかのように空費した気分だ。
「縦長いテーブルだね」
 月の思いつきは0コンマの時差を持って正面に届く。
「横長だそうですよ」
 流河の指摘も0コンマの時差を持って月に届けられた。ああ、そう、という相
槌は時差に乗せることもない、月の胸に仕舞われる。
 やがてやってきた銀のワゴンに載っているのは備前焼の器に盛られたシチュー、
深海の色をした薩摩切子の器にジェラート。顔のそっくりなボーイが二人、それ
ぞれを手に東西に分かれる。月の前には備前焼、赤い色を煮込んだシチュー、そ
してナイフが二種。
 顔を上げると、流河もこちらを見詰めていて、テーブルの上には真っ白なジェ
ラートと銀のフォークが載っている。ボーイを振り返るが、似た様な背中が二つ、
扉の向こうに消えるだけだ。
「夜神くんは、困りましたね」
 感情を込めない声がかけられる。丸い瞳に同情の色はないが、言葉自身の持つ
同情を月は受け止め微笑を返す。
 両手にナイフを持ち、そっと器の中に差し入れる。果たして肉は何処だ。野菜
は。これではシチューではない、スープだ。左手のナイフを持ち上げると鋭く反
った刃の先から暗く赤い雫が一滴落ちる。月はそれを舌の上に落として味わう。
至って普通にビーフシチューの味がした。肉と、よく煮込んだ玉葱の味。
 正面ではフォークの端を抓むように持った流河がジェラートを突いている。ほ
んの少し掬われたそれを舌の上に乗せた流河は口元を動かしながら、視線は決し
て月から離さない。
 メインディッシュで御座います、という声が聞こえた。扉が重々しく開き、銀
のワゴンに載った少女が運ばれてきた。銀の髪、白い肌、赤い唇、細い手足と未
成熟な身体。唇は美しい三日月のような笑みを描いているが、瞼は閉じたまま。
片目を失ったボーイがテーブルの中央に少女を載せる。少女は銀の髪を垂らし、
爪先を宙に浮かせテーブルの上に横たえられる。
 メインディッシュで御座います、という声が再び聞こえた。明滅を繰り返して
いたシャンデリアが光り輝いたまま、一瞬、宙に浮いた。落下する煌びやかな音
が窓に当たって砕け散る。刹那の音楽を演奏するオーケストラが仕事をしたよう
な、音。水晶が、硝子が弾け飛ぶ。赤く染まる。美しく、美しく、もっと美しく
と急かされるようにシャンデリアに、テーブルに赤い血は広がって、しかしそれ
も一刹那。
 少女の上に落下したシャンデリアは完全に沈黙した。
 外は闇夜の闇、窓硝子の黒の黒。しかし広間の輪郭はぼんやりと浮かび上がる。
ビーダーマイヤーを名乗る横長のテーブル、肘掛の触りの良い椅子、硬い石の床
に、南北十三の窓。そして自分から決して視線を外さぬ双眸。
 月は両手のナイフを上に向け、言った。
「食べよう」
「おまえは人の命を何だと思っているんだ、キラ」
「これはメインディッシュだ」
「おまえはいずれ裁かれる」
「僕らが望んだから差し出されたメインディッシュじゃないか」
「私が死刑台へ導いてやろう」
「聞こえないよ」
 椅子を引き、月は立ち上がる。
「0コンマの時差なんてうんざりだ」
 月が歩き出すと、男も椅子から下り獣と人の未分化の動物じみた動作でゆっく
りと近づく。テーブルの真ん中で、月は男と並んで立った。
「椅子の置き方が間違っていたんだ」
「それは認めます」
 思った瞬間に言葉は伝わる。当たり前だ。二人の精神はどれほどに肉薄し、ど
れほどに同じ時間を歩んできたか。
「でも考えに賛同するのは別の話です」
「ジェラートは?」
 男の目は半眼閉じて不機嫌そうに月を見上げる。
「必要ないのかい」
 月はナイフの先で少女の瞼をなぞった。
「美しいうちに食べないと、腐るよ」
 男は右手をゆっくり持ち上げた。手の先にフォーク。
「おまえが裁くのか、L。おまえ自身の手を汚して、僕を裁けるのかい」
「勿論だ。私がこの世に残った唯一の人間だから」
「神を裁くのかい、人間」
「そうだ。人間を殺した罪がおまえには科せられている」
 唐突に、あはははは、と明るい笑い声が響いた。瞳を閉じた少女の赤い唇がぱ
っかりと開き、そこから美しい声紋が飛び出す。笑い声は増幅し、窓に跳ね返さ
れ極限まで膨張した後、自己の質量に耐え切れず崩壊した。
 唇は小さくすぼみ、うふふ、と囁いた。
「キラ…さん」
「ああ、僕がキラだよ」
 月はナイフを持つ手に僅かに力を加えた。刃が瞼を裂いて、眼球に沈み込んだ。
月は血の滴るナイフを空中に掲げ、少女の名前を書いた。ミサ。
 うふふ、と笑った顔のまま、少女は事切れている。
「キラ……」
 男がようやく声を絞り出した。男の目の前でキラは名乗り、実際に殺してみせ
た。
「望みが叶った気分は如何だ」
 月は右手のナイフを投げた。それは床の上に深々と突き刺さった。
 左手のナイフが男の左胸を狙った。同時に男のフォークが月の首筋に突きつけ
られていた。裁きの日は来たり。部屋の輪郭が壊れてゆく。細いペンで一本ずつ
その輪郭を塗り潰していくように。消えてゆく。黒の中に。窓が消え、部屋が消
え、椅子が消され、横長のテーブルが端から塗り潰される。
 月は口元に微かに笑みを浮かべた。
 男は苦々しげにそれを見遣った。
 ところでガーゴイル然として屋根の上にいた死神が漏らした独り言と言えば、
毒林檎も美味いということだった。彼は建物からそれを伝えるべき人物が出てく
ることを――手ずから林檎を与えてくれる彼が出てくることを――今でも待って
いる。