HAPPY BIRTHDAY




 薄い雲を越して光る太陽が、空を銀に染めていた。やや強い風は時折、耳を聾
し、遠い鴎の鳴き声の合間に人ならざる声を聞いた気がする。振り返ると急なこ
とに死神が首を傾げた。月も何事もなかったかのように前を向いた。
 電車を降りて随分歩いている。花の溢れる玄関先、壁に仕切られない家々。モ
ルタル塗りの低いアパートや、戸の開きっぱなしの駄菓子屋。偶にすれ違う人の
気楽な服装、ぞうりやサンダル、色の褪せたスカート、使い込まれた割烹着、皺
の寄ったズボン。それら色彩と共に匂うような生活の痕跡。月の生活圏にはない
ものばかりだ。制服の上から羽織っていた上着はとっくに脱いだ。体温が上がり、
今は寒くない。風も心地良いほどに感じる。
 しかし海辺の町は行楽の季節でもなく、閑散としていた。月は駅で目にした案
内板を頼りに坂の上の公園を目指している。そこからは海岸が見下ろせるはずだ。
リュークは電車の中でも何も言わず、ただ黙って月についてくる。ただ、家を出
る際、デスノートを鞄の中に忍ばせたのは目ざとく見つけたらしいが。
 所々角の欠けた石段を上ると展望台と名の付いた公園に至る。案の定、人の姿
は無く、木が寒風に吹かれてざわめくばかりだ。
 丸い広場を、月は海岸を見下ろしながら半周した。水位が上がった所為で狭く
なった半人工海岸は、満ち潮時の今、ほとんど波の下に沈んでしまい、端のテト
ラポッドだけが頭を出している。
「ライト」
 死神が呼んだ。一分百円の望遠鏡の側に立ち、コインの投入口を指差している。
月は小さな溜め息を漏らし、財布から銀色の硬貨を一枚取り出した。
 カシャン、と心許無い音が響いて、覗くと、急に拡大された景色が目に入る。
月は望遠鏡の角度を調整した。対岸に街が見えた。ビルとネオンと排気ガス、そ
して溢れんばかりの人が住む、月自身が住む街だ。
 死神に代わってやると、心なしか顔が嬉々として見えた。望遠鏡の角度は街を
横に流れ、海上の船舶を捉える。タンカー一隻。船尾から波が白く、扇形に広が
る。
 自分の持ち分だった五十秒を死神はあっと言う間に消費したが、それ以上求め
ようとはしなかった。月は昇ってきた石段とは逆についた林間の道を下り始める。
死神がその後に続く。
 テトラポッドの上をおっかなびっくり歩いていると、大きな羽音がして死神が
楽な方法を取ったのを知る。月が一歩踏み出すたび、小さな生き物達がその陰へ
そそくさと隠れた。船虫や小蟹、水際では藤壺がこぽこぽと耳に聞こえない音を
出す。
 ようやく突端に辿り付き腰を下ろすと、また羽音がして背後に着地した気配。
それからしばらく静かになった。
 鴎の声は猫の声にも似ている。目を瞑ると手の下の固く冷たいコンクリートの
感触が急な明確さを得る。しかしその他の認識は曖昧で、遥か頭上で鳴いている
のは何なのか、鼻を擽る潮の匂いに惑わされ、もう足先は海に浸かっているよう
な妄想も簡単だ。
 不意に瞼が白く光った。月はゆるゆると目を開けた。雲が所々細く切れ、薄青
い空が覗く。太陽の光が射すように降り、風の流れと共に移動した。テトラポッ
ドも白く光るように照らされて、束の間、月は空を見上げて呆けた顔をした。
 視界の端から何かが消えた。月は海上に目を凝らした。タンカーが光の中から
抜け出てゆるゆると外海へ向かう。あの海外船舶の反射する鈍い光に反応したの
だと分かった。
 少しだけ破顔して月は目を覚ました。
 鞄の中からデスノートを取り出す。黒い表紙に怖れをなすように光が移動する。
日も翳り、月の膝の上はしんと静かになった。
 胸のポケットに指していたボールペンを取り、指先で弄ぶ。
「僕は今日」
 独白のような、科白のような月の声は。
「十八歳になったんだ」
 奇妙に整えられた音色で潮風に舞った。
 すらりと立ち上がる。足を真っ直ぐ伸ばし、背を弓なりに、腕は真っ直ぐ天へ。
 ノートは、手の先。
 ページが風に鳴る。等しく死を与えられた者たちの名が歪み、張られ、風に鳴
る。それらは怨嗟というよりも、空に舞う者達の羽音に似た。死によって業罪を
贖い、風に鳴ることを赦されたもののようだった。
 月が振り向いた。ペンの先が、背後にある鼻先を指す。
 急に月の表情は変わった。歳を遡り、あどけなく、その目がそばめられ、何か
苦しいことを堪えるように眉が僅かに寄る。唇が引き結ばれる。
 目元に力の入った、それはまるで泣く前兆のような。
 ノートが風に煽られ、力強くはためく。鳥が羽ばたこうとするように。
 ノートを掴む、指が。
「リューク!」
 小さな、乾いた音を立ててペンが落ちた。テトラポッドの上で跳ね、海に落ち
る。その音も波が飲み込んで、後は頭上に舞い上がる鴎の泣き声。哀しくもない
のに泣き続ける、声の昇り続ける、銀の空。
 を見上げた。
 背を、腕が支えている。細く、異様に長い腕の、しっかりとした。
 腰を、しっかりと捕まえるような。
 顔を見ずに、見上げる空。鳥影を数えられるほど、安心している。
「…本気にした?」
 涙声の囁きに返答は無い。
 このままどうしたらいいか解らない。戸惑いも喜びも、それを叱責する声も、
風に巻かれてくるくると回ってしまえばよかった。回帰する渦の中心は無に決ま
っている。そうだこのまま無に帰してしまえば。
 でも死んだ後のことは、死んでからのお楽しみだと死神が言ったから。
 後でリンゴを買ってあげる、と月は約束した。
 死ぬまでの時間、その一番近い未来だけでも約束しないと、本当に離れられな
くなりそうで。
 離れるのも、離れられなくなるのも、怖い。
 とは、新世界の神には口に出来なかった。



 帰りの電車の中で、月は座席に凭れてうたた寝をした。その手から赤いリンゴ
が一つ、転がり落ちる。他に誰もいない車内をリンゴは転がり、不意に魔法のよ
うに宙に浮くと、消えてしまった。
 しかしその姿を、唯一の乗客である月も、柔らかな夕陽に照らされて浅い寝息、
見ることはなく。電車は街へ向けて、ゆっくり走り続ける。