MY ONLY ELEMENTS




「一ヶ月リンゴ抜きだッ!」
 ぎゃあああああ…という死神の断末魔が浴室にこだました。
 はずだった。


          *


「あ、お兄ちゃん」
 キッチンでは粧裕が危なっかしい手つきでリンゴの皮を剥いていた。
 粧裕はにこっと笑って皮の半分ほど剥かれた不恰好なリンゴを傾ける。
「今日も食べる?」
「いや、今日はいいよ」
 えー、折角剥いたのになー、と粧裕がふくれるので、じゃあ一かけだけ、と言
った。その背後で死神がどんな顔をしているか想像しながら。
 粧裕は皮を剥き終えると、まな板の上でリンゴを四つに分けた。その段になる
とナイフを持つ手も安定して、月の肩からは心持ち緊張が解ける。
 リンゴは本来のような滑らかな曲線を失っていたが、それでもほどよく甘く、
美味しかった。粧裕はテーブルの上に頬杖をついて月がリンゴを食べるのを見て
いる。
「美味しい?」
「うん。ありがとう」
「ふふ。どういたしまして」
 粧裕は思い切り頬を緩めると、テーブルの上に伏して下から月の顔を見上げた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「さっき、誰と話してたの?」
 肝が冷えるとはこのことだろうか。リンゴが飲み下した先で氷の塊に変わって
しまったかのような、腹の底がずんと重く、冷たくなり、ぐるりと渦を巻く。
「さっきって?」
 逆に不思議そうな表情を装い、月は尋ね返す。
 粧裕はぱっちりと目を開き、月の目を見返す。
「お風呂場で。声がしたの。お兄ちゃんの声でしょ。何だか大声で、びっくりし
ちゃった」
 月は胸のうちで嘆息する。よもや何かの手違い――細心の注意を払ってはいる
が、デスノートの切れ端に粧裕が触れてしまったとか、それともあの死神がまた
大切なことを言い損ねたとかー―で、リュークの声が粧裕にも聞こえるようにな
ってしまったのかと思ったのだが、杞憂で済んだらしい。そもそもあんな地獄の
底から搾り出すような断末魔を粧裕には聞かせられない。
「携帯電話?」
「違うよ」
「じゃあ、何?」
「ねえ、粧裕。音の三要素って知ってる?」
 粧裕は腕に顔の半分を埋めた状態で、ううん、と籠もった声を出す。月は人差
し指で、すい、と自分の耳を指差す。
「音圧、周波数、音色」
 そしてその指を伸ばし、粧裕の耳元でパチリと弾いた。
「音はこの三つから出来ているんだ。つまりこの三つの要素の度合いによって音
の個性は決まるんだよ」
「今のパチッていう音にも音色があるの?」
「短い音色がね」
「へえー」
 もう一度やって、と粧裕が言った。月は再び粧裕の耳元で指を弾く。
「…分かんない」
 はは、と月は短く笑う。すると、粧裕は月の指を見詰め、月の顔を見た。
「でもお兄ちゃんの笑い声なら、どんなに短くても音色が分かる気がするな」
 月は微笑し、その人差し指で粧裕の額を押した。
「粧裕も遅くならないうちに、風呂に入りな」
「はぁい」
 リンゴ、ご馳走さま。と言って月は席を立つ。
 おやすみ。と声をかけ、その背を見送った粧裕は笑顔から、ふと眉を寄せた。
 結局、浴室から聞こえた声は何だったのだろう。


          *


 部屋に入る前から、知ってはいた。とうに気配は消えていたのだ。
 ドアを開けると、ベッドの上で壁を向いて丸くなっている死神の背中が見えた。
 一ヶ月のリンゴ断食を宣言したときのリュークの悲鳴は、それこそ世界中に響
くかというほどに月の耳には聞こえたが、それは同じ屋根の下に住む粧裕の耳に
さえ届かないのだ。
 音圧、周波数、音色。
 声が聞こえるからには、これらの要素が作用しているはずだ。しかしデスノー
トというこの世ならざる存在を手に入れた時点で、そういった常識も覆されるべ
きかもしれないが。
 月は机に座り、デスノートを取り出した。何ページにも連なる名前。その最初
の一行が記されたのは冬の始まりのこと。死神はぬばたまのように黒い羽を広げ、
窓から飛び出して、大勢の人間を見下ろしながらそれを指し示してみせた。
 この世でたった一つの絆。死ぬまで断ち切られることのない絆。
 この世でその姿を見、声を聞くことが出来るのは自分だけだと。
「ライト」
 図らずも肩が震えた。月は声のした方向を見た。
 死神の背中は黒く丸まって、その向こうから小さな声が話し掛けた。
「悪かった」
 ライト。
 その声でたがえず僕の名を呼んだ死神は。
 神が、しょんぼりするなんて。
 月は勢いをつけてベッドに腰掛けた。スプリングが跳ね、死神の身体も揺れる。
 死神が振り向く気配がした。月は素知らぬ風に振り返らないまま、言った。
「…分かってるよ」
「ライト…」
 僕だけの音圧、周波数、音色。
 今だけは自分もこの特殊な定義から解き放たれたかった。
 もう一度名前を呼ばれたら、きっと赦す。
 そんな甘いこと…!



 この刹那が勝負。