MEMORIES



 それをまるで当然のことのように、月は服を脱ぐ。
 死神の丸い眼の、感情無き視線も受け止めて立つ、均整のとれた裸身は、惜
しげもなく晒されるのだった。明るい光の下、若木に姿を変えた神の子のよう
に、怖じる様子も更に無い。邪気無く、悪意無く、ただただ存在するばかりの
肉体は晒され、死神の眼前に差し出される。
 浴室には湯気が満ちていた。乳白色の霞の中に月は一歩を踏み出す。背後の
気配も揺れる。死神は当然のように、月の後をついて湯気の中に這入った。し
かしそれは揺るがない。柔らかな温み。甘いような湯の匂い。いつものように
月を包み込む。鼻から吸い込んだ湯気が肺を満たした。月は霞に紛れるように
微笑する。
 湯船の中で身体を伸ばし、ゆったりともたれて上を見上げると、真上から死
神の顔が見下ろしている。月はまた微笑する。
「面白い?」
「…何か面白いことでもするのか?」
「しないよ」
 月は両手で作った水鉄砲でリュークの顔に湯をかける。リュークはそれをひ
ょいと避けてみせたが、肩の黒い羽が濡れたようだった。
 声を上げて笑えば楽しいだろうと彼は思った。
 まだ粧裕と一緒に風呂に入っていた頃、その最後が自分が小学四年と五年の
間の春だったことを覚えている。その時彼女はまだ幼稚園に通っていた。今よ
り髪が長かった。水鉄砲で湯をひっかけると拗ねるので、背中を流し、髪を梳
かし、お姫様の真似事をしては機嫌をとった。声を出して笑う、二人の声が浴
室にはよく響いた。
 他愛も無い笑い。失われて久しい宝だ。月は不意に微笑を消した。リューク
の顔を見上げ、瞬く。濡れた睫毛が小さな水滴を弾く。
「リューク」
「何だ、ライト」
 死神の声が聞こえる。死神の声が自分の名前を呼ぶ。今の己は、ともすれば
宝をくれた彼女さえも危険に陥れる程の力を持った。
 全ては運命だ。
「何なんだ、ライト」
 焦れたように死神が問う。
「…背中、流してよ」
 湯の中から身体を起こしながら、月は言った。


 シャワーの音が静かにタイルを叩く。月は小さな椅子に腰掛け、背を丸めて
足を洗っていた。足の爪から、指の間まで、くまなく丹念に湯を掛け、手指で
さする。
「水虫か?」
 と、冗談も言える死神は言ったが、片眉を吊り上げただけで返事はしなかっ
た。
 そして丁寧に足を洗う。踵から土踏まずに手を滑らせ、指を一本一本手に取
り、労わるように足の甲に触れ、踝を撫で。
 リュークがかつての記憶の中にその姿を見出したと言えば、それは余りにも
感傷的な事だった。だが膨大な過去の中にその姿は在ったのである。荒野を行
く巡礼者、死を明朝に控えた殉教者。灼熱が焼き、埃が積もり、砂が荒らした
その足を、彼らは少ない水で丁寧に洗い、死を待った。
 足を洗う月の姿は、余りにもその様に酷似していた。それを想う程の構造を
死神は持ち合わせていないが、彼は、月の知りえない過去、そうしたように、
その後姿を見下ろして笑ったのだった。
「…面白い?」
 振り向かないまま月が言った。
「さあ」
 死神がはぐらかすと、ようやく振り向き、微かに眉根を寄せて笑った。
「背中、流してよ」
 月はスポンジの上にボディーソープを乗せ、リュークに手渡した。白い泡の
乗ったパステルカラーのスポンジを死神はまじまじと眺めた。
 リュークは黙って月の背中を流し始めた。首から背中の中心を真っ直ぐに走
る背骨。前屈みになり、少し浮き出た肩甲骨。乳白色の霞の中、白い泡に覆わ
れた白い背中。
「ライト」
「ん?」
「ライトはいつも泡で身体を洗うな」
「そうだよ」
「面倒じゃないか」
「何で?」
「独りで洗う時、いつも背中に泡を乗せるの、苦労してるだろ」
「今夜はリュークがやってくれるじゃないか」
「どうして“擦りタオル”を使わないんだ?」
「え?」
「お前の妹みたいに、それ、使えば、背中洗うのも楽なんじゃないのか?」
 ふと、月の身体が強張った。僅かに開いた唇から小さな声が漏れた。
「……見たのか」
「え?」
 月の背中がゆっくりと伸びる。顔は正面を向いたままだが、目をひたと据え
ているような首の据わり方だ。やや音量を上げた声が、静かに問い質す。
「覗いたのか?」
 くるり、と月の顔が振り向いた。目元や口元の痙攣を抑えるように顔が引き
攣っている。そのままリュークと視線を合わせた月は、ふふ、と小さく笑って、
顔の上に笑みを作った。
「死神は心臓をナイフで刺しても死なない」
「ああ」
「頭を銃で撃ち抜かれても死なない」
「ああ」
「何も食べなくても、死なない」
「…ああ」
「じゃあ」
 ナイフのような視線がリュークを貫いた。
「リンゴを与えずにどれだけ正気でいられるか試してみようか、死神リューク」


          *

 
 外には雪がちらついていた。このところ、随分寒い。バスルームの側を通り
かかった月はドライヤーの音を聞いた。粧裕が入っていたらしい。髪の長い彼
女だ、しっかりと乾かさないと風邪をひいてしまう。
 台所から引き返す際、再び通りかかると、パジャマに着替えまだしっとりと
した黒髪を垂らした粧裕がちょうどタオルを片手に出てくるところだった。
「あ、お兄ちゃん。お風呂どうぞ」
「ありがとう」
 月は手の中のリンゴを軽く投げて、受け止める。
「後で入るよ」
 月は軽い足取りで階段を上る。その後姿を見上げながら、粧裕が声を掛けた。
「お兄ちゃん」
「何?」
「何だか機嫌良さそう。何かあったの?」
「…そうかな?」
 月は振り向いて笑う。
 もう一度手の中のリンゴを放って、掌で。パシ。受け止める。
 久しぶりにかぐ爽やかな果物の匂い。
 やっぱり何かあったんでしょ、と粧裕が拗ねた口調を作りながら、笑っていた。