SOUL FLOAT



 少し。
 生温い夜の筈だった。闇の中で光を放つディスプレイ、そのウィ
ンドウの隅に表示された気温と湿度がそれを告げていた。しかしニ
ューストピックスに上る程の事実、ではない。
 彼、は。
 立ち上がる。灯りも消え、動きも止まった午前四時の街並みを、
硝子の塔から見下ろし、ポツ、ポツと残った光に、人の生活を思う。
人間の営みを想う。
 人。
 発達した四肢、頭をてっ辺に掲げた、知性ある生き物が。
 自分と同じ形をした生き物が。
 無数に住んでいる。あの灯りの中に、眠った闇の中に。そしてそ
の中にキラはいる。眠っているのか、恐れ、眠れぬ夜でも過ごすの
か、そこは推理の難しいところだ。しかし確実に、四肢、頭を上に、
この形をした生き物として、自分と同じ形をした生き物として、こ
の世界に潜んでいる。
 窓の外の闇に眼が慣れ始める。強化硝子の窓に映る己の、姿。
 四肢、頭。
 臓物を詰め込んだ胴。
 何故、人はこのような形をしているのだろう。
 指先を伸ばし、硝子にそっと押し付ける。
 何故、私はこのような形をして生まれてきたのだろうか。
 私というシステムでは駄目だったのか。この思考回路、電子の行
き来としての存在だけでは駄目だったのか。事実、キラが登場する
までは、まるでゴーストのように存在できたのに。器を持たない、
優秀な回路。
 毎日、何らかの食物を摂取し、水分を補給し、維持する器。が、
この器こそが電子を行き来させ、思考を可能にする。
 では思考しているのは、私、ではなく、この器なのだろうか。
 ならば、この器こそ、私そのもの。
 だからこそ、いとおしい。だからこそ、守ろうとするのだ、四肢、
頭、人という形をした生き物を。
 清潔な床に触れる裸足。温度を感じない程の清浄な空気と、塵一
つ、埃の一払いも見当たらないこの部屋で、たしかにLという命は
人の形をして生きている。そのことに彼は不意に思い当たったのだ
った。
 硝子から指先を離す。指先の体温は硝子に奪われ、冷たくなって
いる。



 明かりを点ける。清潔に乾ききったタイルと白い浴槽。浴槽には
半分ほど湛えられた、湯。その表面から湯気は立っていない。
 彼は躊躇いがちに服を脱ぎ、素肌を晒した。服が首を抜け、腕を
抜け切った、刹那、空気の存在が裸の腹や胸に触れる。
 指先を端に引っ掛けズボンを下ろし、全くの素裸になる。白い裸
が洗面台の鏡に映る。己の身体だ。溢れる血と肉を皮膚で隔て、形
作られたLという器。器は異様なほど青白く光の下に佇んでいる。
 乾いたタイルの上を歩き、浴槽の前に立つ。縁に手を掛け、片足
をあげ、ゆっくりと湯船に下ろす。
 生温かい。夜の気温だ。ウィンドウの隅、摂氏、パーセンテイジ、
ニューストピックスに上る程もない。
 その生温かさが侵蝕する。爪先からくるぶし。脛から、膝を曲げ
て、太腿に触れた。腰に纏わりついた。腹を浸して、胸が半分沈ん
だ。そこで侵蝕は止まった。
 彼は曲げていた膝をゆっくりと伸ばす。まるで不自然な行為のよ
うに。或いは、死者の身体を扱う様に、それは似た。
 両手で触れ、筋肉をほぐす。人の身体。血と、肉と、骨を、皮膚
が覆い。隔て。
 生温い水が心地よく身体を濡らす。そのうち、感覚に隔てがなく
なってしまうのを彼は感じた。まるで水の中に浸かっているとも、
浸かっていないともつかないような。水が存在しないかのような。
私の身体こそ、存在しないかのような。
 Lは膝を曲げた。
 左手で脛を抱き、右手でその上を覆った。
「ワタリ」
 呼んだ声はプラスチックのように乾いていた。
 バスルームの硝子越しに現れた人影は、すぐに消えた。
 明かりが、落ちた。
 浴室は闇に沈んだ。何も見えない。自分の身体さえ、見えない。
存在するのは、水か、私の身体か。その真実も。
 湯船の中で踵を擦り合わせる。微かに水面の揺らぐ、水音。
 Lはそっと爪を噛む。
 そして眼を閉じた。




 冷たい水から上がったLは、久しぶりの眠りに落ちた。