L - i m i t



 緩く、たゆたう波のように体にまとわれている服を、指先を布地と皮膚の間に滑り込ま
せ、古書のページでもめくるように剥がし、腹を露わにさせる。流河は小さく両手を上げ
た、降参です、のポーズのまま、孤独な魚に似た、可愛らしい蜥蜴にも似たまん丸い目を
無感動にその指先に、そして時折確認するように月の顔に向けた。途端にそれは生き物の
無垢からカメラの無機質に相を変える。
 観察しているのだ、月を。純粋に月の人間性を知りたい訳ではない。探しているのはキ
ラへその尾を伸ばす糸口。
「観察、してやるんじゃなかったのか?」
 耳元に囁かれる死神の声は嘲笑を含んでいる。ビジネスホテルの一室は簡素すぎ、月を
放っておいて遊ぶのには早くも飽きたらしい。
 月は死神の言葉を無視して、流河の腹に指を滑らせる。平生服装などには全く頓着して
いない流河だが、肌に触れた感触は意外にも清潔だった。そして服に覆われていたにも関
わらず、体温が低かった。
 汗垢じみた、裏を返せば地面の上であくせく動き周り一日一日を生き延びる人間らしい
人間の匂いの全くしない流河の体は、月が毎朝口にするミネラルウォーターの味を思い出
させた。清潔な空間で隔絶され精製された味。服がめくれ上がったのは、まだほんの僅か
だ。その人間らしくない体温の低い腹だけ。
 月はベッドに腕をつき、顔を、その白い皮膚の上に近づけた。
 口づけをしたのではない。自分の頬の皮膚から感じられる何かを確かめるかのように。
「優しいんですね」
「迷ってるのか?」
 顔を伏せた月へ、声は同じ方向からかけられた。月は顔を上げ、上目遣いに声の主を見
た。
 レンズの無機質から生き物の無垢をほんの少し覗かせて声をかけた流河。そしてその枕
元に、まるで自分のとりついた相手は流河だとでも言うように、当然とばかりに座ってい
るリューク。
「……もちろんだよ」
 月の声はそれを投げ出すように響いた。指がするりと動いて、流河の服を胸までたくし
上げた。
 レンズ、ミネラルウォーター、魚のイノセンス。
 膝をベッドの上に乗せる。顔がリュークの脇を掠める。そのまま月の唇は流河のこめか
みに触れた。


          *


 流河は二、三秒の沈黙と共にあさっての方向を見、きょろりと視線を戻す。
「失礼でなければ。夜神君はゲイだったんですか?」
「そうだな…バイの方が近いんじゃないかな」
 月は俯き加減で苦笑し、ティースプーンを掻き回してみせる。カフェの奥での、親しげ
な、しかし切実さを込めたカミングアウトを気取って。
「高校の時にも彼女はいたんだ。女の子と一緒にいるのは楽しかったし、本当に心から好
きだったよ」
 そこで口を噤んで、手を止める。ティースプーンでカップの縁を、音のしない程度に二、
三度叩く。
「…どうだろうな」
 そして小声で、自分のことを考えるのは苦手だよ、と囁いてみせた。
 流河は黙って自分を見ているが、いつもがりがりと削っている爪を噛む癖が止まってい
る。
「しかし…そういう対象として見られていたとは気づきませんでした」
「そう?」
 月は顔を上げる。そして苦笑。なるべく感情的に。なるべく儚く。そして淋しそうに。
 無垢の視線が自分を調べている。言葉を吟味している。これは信じるに値するのか。そ
うでなければ、何故このような話を切り出すのか。伸るか、反るか。
 流河が口を開く。
「…このまま良い友達で、と言うと、いくら精神的に強そうに見える夜神君でも傷つきそ
うな気がします」
「ははっ」
 短く乾いた笑い。
「そうだね、何せ初めて自分からした告白だから…」
「夜神君は、私とどういう関係になることを望んでいるんですか?」
「Lにしては野暮な質問だな」
 笑みを不安の陰に溶け込ませる。そして視線を逸らす。そして小さな声。
「出来るなら、二人きりに…」
 恥らうように。
「二人きり、ですか?」
「二人きり」
 上目遣いに流河を見た。本来なら自分こそがこの表情が十八番である流河は、その視線
を下げていた。その先に伝票があった。コーヒー二杯。安いものだ。


          *


 纏わりついて離れない、のは視線だ。
 脱がなかった服。シャツを濡らした汗。
「…面白かったか?」
 低い声で尋ねる。死神は沈黙したまま月の枕元に座っている。
 シャワーを浴びに起きたかったが、ここまで億劫な気分には逆らえない。黒い、鋭い爪
の先が髪を弄っている。触るな、と言ったが聞かない。
 闇が濃くなってきた。陽はとうに隣のビルに隠れ、流河の裸体を目の前に晒すとき、月
は枕元の電球を点けなければならなかった。
 全てを剥かれたというのに主導権を握っていたのは、まるで彼だったかのように、触れ
るほどに余裕が失われた。カメラのレンズのような、無感動な、無慈悲な目が。死刑台。
首に縄をかけられぶらさがる、それは既にモノ。そんな自分の姿をも易々と浮かべ得るよ
うな丸い目。
 そうだ、死神の眼にもその時を知る数字が見えるのだったな。
 まあ、いいさ。奴は神となった自分を想像し得ない。そして新世界にまみえることもな
い。
「ライト」
 枕元の闇が話し掛ける。
「今夜は泊まるのか?」
「いや…」
 月はゆっくりと身体を起こし、顔にかかる髪を手櫛でかき上げた。遮光カーテンの向こ
う側を階下のネオンが照らしているのが分かる。
「…僕の時計は?」
「覚えてないのか?」
 リュークはベッドの下に手をもぐらせ、爪の先で摘み上げる。
「六時六十六分」
「七時、六分」
 冗談らしい科白に律儀に訂正を返し、シャツを脱ぎ始める。
 シャワールームについて来ようとしたリュークは戸口で締め出した。
「入ってくるな」
 死神はニヤニヤ笑っている。
 熱いシャワーを頭から浴びながら、月は顎を上げた。口を開き、熱湯で口の中を濯ぐ。
 ミネラルウォーターのキスか?
 無味、無臭。無感覚の麻酔でも染み込ませたかのような。
 舌を出して、熱い湯を受ける。まだ痺れていた。


          *


 車の後部座席に、蹲るように座り、両の裸足をそっと擦り合わせると普段の感覚が蘇る。
 他人と肌が触れるなんて。
 親指の先を少しだけ、口に含み、目を瞑る。感覚は裸足の踵に。
「話があるんだ」
 夜神月の声が聞こえる。
「流河に聞いて欲しい話が」
 月の髪は日に透かすと淡く異人種的な光を孕んだ。
 彼は反芻する。
 カフェの奥の席。靴をそろえて脱ぎ、膝を曲げる。注文していたコーヒーが届く。
 音量の抑えられたクラシック。夜神月の口から発せられたいささか硬い声が、曲と反発
する。
「告白を、したいんだよ」
 自分はコーヒーにガラス容器のガムシロップを三分の一、ミルクを三杯入れた。
 月はコーヒーに手をつけず、両の指を絡めていた。
 夜神月はこう言った。
「好きなんだよ」
 夜神月はこう言った。
「君が好きだ」