PERFECT WORLD




 深い森や、川辺の岸壁、黄昏の木々の合間を縫って流れ、白く砕
け落ちる滝。いずれもロマン主義と呼ばれた者たちの作品であり、
美術館の一角は森の枝がその腕を伸ばしたかのような黄昏の暗さに
沈んでいる。時間はゆるゆると動きを止め、どこか遠くで響く空調
の唸り声、誰かの空咳も木立の中に吸い込まれる。夕暮れの黒から
生まれたような、褐色、影を際立たせる橙色の光、風が吹き、川が
流れているのに、それさえ耳の中で飽和しきってしまったかのよう
な静寂。
 夜神月は急に足を止める。わずかな硬直の後、一歩、二歩と順路
の流れから後しざる。その眼は人の流れを既に映さず、黄昏の森に
吸い込まれている。森の暗い影。夕暮れの明るい空は遥か上空で、
見上げても見えるのは褐色に塗られた名も知らぬ木の葉。その隙間
からかすかに届く光の中で、まるで息を止めているかのような完結
を彼は感じた。
 これだけだ。この場所だけだ。この夕暮れの影に彩られた完璧な
夕暮れの森だけがあるのだ。これが世界なのだ。人はいない。獣も。
虫も。あるのは夕暮れの空の下、影に沈む森、沈黙する大地、音を
立てぬ川。完全な静寂。完璧な静寂。画家はいない。この絵はずっ
とあった。ずっと、ある。
 いずれ近いうちに自分も世界を作り上げるだろう。完璧な世界を。
橙色の淡い照明が額縁の彫刻の影をより濃くする、この完結した世
界のような。目の前だ。目の前まで迫っている。だって。
 夜神月は背後を振り返る。離れた壁には印象派の絵がかかってい
る。赤い服の女。プールヴィルの断崖。光に溢れた世界が。しかし
あの白い光の中にも、もういない。あの男は存在しない。あの中の
どこを探しても、膝を丸めひたすらに謎の解決と甘いものを求めた
あの男は。死人の影など、溢れる光りの中には見当たらない。
 そうだ。僕は光の世界を作っている。一歩一歩、鑿の代わりにペ
ンを用いてその礎を築く。一人一人、絵筆の変わりにペンを用いて
その名前を書き記してゆく。光の世界には神こそ相応しい。敗北し
たお前は黄昏の中で沈黙するんだ、永遠に。僕は行く。
 しかし夜神月の足は動かない。遠く離れた正面の印象派の絵たち。
すぐ背後に並ぶロマン主義の沈む黄昏。完結している。この世界は
完結している。しかし出口はどこだ。僕はどこからここにやって来
た。他に絵はないのか。バルビゾン派は。他の部屋にはジョルジオ
・デ・キリコがあるんじゃなかったろうか。
 帰り道がない。この世界は完璧だ。だって神の世界なのだから。
神の作った世界なのだから。
 空調の音も消えた。空咳をする人間もいない。獣も。虫も。背後
からは死神の笑い声さえ聞こえない。静かだな、と夜神月は溜息を
ついた。それさえも音は無く。