POSSIBILITY



可能性。ソフトクリーム食べたいわ、ってゆきずりの誰かにねだること
(『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』 穂村弘・小学館)


 冷たい雨が降っていた。路上の弦楽弾きは――ああ湿気にその愛
器が痛んでしまうというのに――唄い続けている。ペイパー・ムー
ン、たとえ紙の月でも…。私はそれを眺めていました。私の身体は
まだ成熟しきっていなかった。第二次性徴と精神が時々諍いを起こ
す、はずが私の精神は梯子の上を一途に見詰めて、正直肉体のこと
を顧みなかったのも事実です。
 だから私は傘を与えられてようやくさしたのでした。それでもそ
の傘――柄を覚えています、小さなエンブレムが散りばめられてい
ましたね――を肩にもたせかけて私は橋の上にしゃがみこんでいま
した。そして可能性について考えていました。
 人が人を殺す可能性について。
 幼い少女が一人、無残な死を遂げていた。命の何たるかを知る前
に、唐突に奪われ、もぎ取られ、肉体は手酷く傷つけられて晒され
て。私はそれらを実行した人間について考えていました。どんな人
間がそれら行動にでる可能性を持ち得るのかと。
 可能性。論理に照らし合わせていけば、その照準は次第に狭まっ
ていく、はず。
 私は立ち上がって、屋根の下で弦楽を奏でる男に近づきました。
男は若く、金がない様子で、足元の空き缶には小銭の一つも入って
いなかった。彼は不審そうに私を見ました。私は全く気にしていな
かったけれども、長く雨の下しゃがみこんでいた私の下半身はずぶ
濡れだったのです。
「ソフトクリームが食べたいんです」
 彼は弦を押さえる指を脱力させ、弓を下ろしました。そして私の
手を引いて近くの菓子屋へ連れて行きました。彼はポケットの中か
ら取り出した小銭で私にクッキーを二枚買い与えました。レーズン
とチェリーの載ったものを一枚ずつ。そして私に食べるように言っ
たのです。
 雨の降り続く下で、私達は別れました。彼は再び足元に空き缶を
置き、弦楽を奏で始めました。ペイパー・ムーン、たとえ、紙の月
でも、君がいれば……。
 私はワタリに指示を二、三出しました。翌日弦楽弾きの彼はヴァ
イオリンを取り上げられて、その両手を縛られた様を新聞写真に撮
られました。私は目の前のケーキにも紅茶にも手をつけませんでし
た。失踪前、少女の歌っていた歌。ペイパー・ムーン、たとえ紙の
月でも貴方がいれば…。
 これが雨の多かったイギリスでの、私の記憶の一部です。