DEADMAN STREET




 僕は覚えていない。
 通りを歩く僕は覚えていなかった。リュークは二人を繋ぐ鎖
の上からふわりと舞い上がると雨の降る空へ、僕は顔を上げる
が、その姿は窓枠に遮られ見ることができなかった。僕はテー
ブルに金を置き、冷めた紅茶と齧りかけの林檎に背を向けて、
忘れられた通りに出る。雨が降り続いていた。
 建物に向かって項垂れる死人の列。僕が何処から出てこよう
と、最初に目につくのはレイ・ペンバーだ。ドアの真ん前に立
っている。僕はフードを被り、彼と死人の間を抜けて通りに出
る。僕とLの姿はもうない。だが雨は降り続いている。いよい
よジャミングを激しくかけるように、強く、叩きつける。空が
重く重く、通りを押し潰すように垂れる。空ごと大きな一つの
雨粒になるかのように。
 僕は歩き出す。歩き出す意外に術がない。否、歩くことさえ
術ではない。僕は漂うだけだ。あの身体から切り離され漂う僕
は、魂か、精神か、霊か。何という存在なのか、言葉の定義は
難しい。が、それも意味はないだろう。僕は存在している。
 キラは存在している。身体から切り離されたキラは、今、こ
うやって世界の悪意の底流を漂うことしかできない。いずれそ
の肉体を得るまで。
 悔しくはない。悲しくもない。虚しくさえない。術さえない
のに、涙を流す肉体さえ持たないのに何を嘆くのだろう。何も
必要ない。あとはノートと、それに名を記す手。そして揺るぎ
ない神の意思。
 雨がフードを叩く。フードはじっとりと重く濡れ、耐え切れ
ない雨粒がその縁からぽたぽたと落ちる。僕はセンチメンタリ
ストではないが、これは涙だろうと思う。現世に泣く者の涙だ
と思うし、無駄に流された血の雨なのだと思う。この雨を止ま
せることができるのは僕だけなのだ。僕とノートにこそ世界を
晴れ渡らせることができる。
 黒い羽音が背に舞い降りる。この羽音はいつも僕の後ろにい
る。振り向いて存在を確認することはできない。この通りにリ
ンゴは売っていないから、ちゃんと食べられているのかも分か
らない。もしかして逆立ちをしながら飛んでいるということは
ないだろうか。
 何故、背後の死神がノートを持たない、その上肉体さえ持た
ない僕の後に憑いているのかは知らない。面白そうで言えば地
上が面白いに決まっている。こんな地上とも死神界ともつかな
い魂と悪意と血と涙のゴミ溜めのような場所を(もしかしたら、
ここが天国にも地獄にも行けない魂の行く先なのか)術もなく
漂う僕に憑く死神らしい理由は、僕には思い当たらない。
「…リューク」
「ん?」
「どうして、まだ僕に憑いているんだ」
「おまえの最期を見届けるためだ」
「もう見届けただろう、ノートの最期を」
 死神は口を噤んだ。背後に羽音だけを立たせ存在を表明する
この死神は、最近こうやってだんまりで質問を流すことを覚え
た。僕は何だか苛立たしくなって両手を雨降る空に突き出す。
「見ろ!」
 爪の先まで雨に濡れる。冷たい針のような雨だ。僕は十本の
指を広げて見せた。
「僕はノートを持っていない。持っていないんだぞ!」
「…だから?」
「リンゴだって持っていないんだ」
 クク…と死神の笑う声がした。やたらクの数が多かった。
 僕は溜め息をついて歩き出す。羽音がついている。死人の背
に挟まれた通り。雨に行く末も越し方もけぶり、茫漠と漂うば
かりの場所。僕の足音と羽音ばかり響く世界。
「リューク」
「ん?」
「……もういい」
 と、黒い羽が一枚、空から舞い落ちた。雨に濡れて痩せたそ
の羽を、僕はポケットに仕舞った。