AFTER LIFE




 ああっ、お兄ちゃーん、という文字を目で追いながら鏡太郎は手を伸ばして
テーブルの上のアップルパイを取り上げる。一口齧ると中のカスタードクリー
ムがとろりと流れ出したので舌先ですくった。その頃には目は、いい、いい、
お兄ちゃん、大好き、という文字を追っている。
 そんな自分を黒い羽を春風にそよがせた死神が面白そうに見ている。
「よく恥ずかしくないな」
「オープンカフェでポルノ小説を読みながらコーヒーを飲むことが?」
 歓楽通りを爽やかな風が吹き抜ける。三月も末の木曜日、春休みだろうにわ
ざわざ制服に身を包んだ少女達が多く目につく。長袖にカーディガン姿の少女
達は、うららかな日差しを浴びて肌を僅かに汗ばませている。しかしパラソル
の下でエスプレッソとアップルパイを味わいポルノ小説を、文庫カバーもかけ
ずに読む太郎は、汗ばんだ少女の肌には見向きもしない。
 その代わり、つまらなそうに言った。そんなの今更じゃないか。僕の思春期
も第二次性徴も初体験も見といて、一体何年一緒にいるんだよリューク。そう
言うと死神は実に楽しそうにくっくっくっくっ……と喉から漏らす声を隠さな
い。
「店員まで引いてるぞ」
「その方が人が寄ってこなくっていいじゃないか」
 太郎は初めて文庫本から顔を上げ、リュークを見た。その顔は、目を細めて
心持ち嬉しそうに笑っている。
「こうやってリュークにアップルパイを分けてあげられるのも…」
 太郎は左手の文庫本を横にずらし、身を乗り出すとアップルパイの皿の上で、
更に手に取った一切れに齧りつく、ふりをした。実際にはリュークの口の中に
収められる。太郎は指で紫色の唇についたシロップとカスタードクリームを拭
い取り、自分の口の中に入れる。
 ちゅ、と音を立てて太郎は指を抜く。
「…人がいないお蔭だろ」
「じゃあ、もっと人がいない所で堂々とやればいいんだ」
「堂々と? 何がしたいの?」
 太郎は脇にどかしていた文庫本で再び顔を隠し、アップルパイの最後の一切
れに手を伸ばした。
 と、その手が押さえられる。
「…リューク」
 文庫本を退かすと、リュークの顔が目の前にある。
「………」
 しばらく黙って睨み合っていたが、これは表情の変化に乏しい死神が有利だ。
根負けをしたのは太郎で、とうとうリュークの顔を見て噴き出した。
「あはは、突然笑い出すなんて…」
「狂人の沙汰だな」
「おまえがさせたんだろう、リューク」
 太郎は笑いながら文庫本で再び顔を隠そうとしたが、ふとその文庫本を開い
たまま自分の横顔を隠した。
「…さっきからあの女の店員が、ずっと見てる」
「野次馬だ」
「きっとデスノートの噂も好きな類さ」
 囁いて、太郎は素早くリュークの唇に自分の唇を触れさせた。
「さ、これでアップルパイは僕の」
「ずるいぞ」
「じゃあ半分食べればいい」
「分けるのか」
「反対側から齧れよ」
「いよいよ羞恥心をなくしたな、おまえ」
「そうさせるのは誰さ」
 横目で文庫のページに視線を走らせ、太郎はそれをテーブルに伏せる。最後
に見えた言葉は、イイよおっ、お兄ちゃんお願いキスして、で66ページ。肩
にかかる黒髪を、死神が指輪で飾り立てた黒い指で弄ぶ。黒いシャツの肩が揺
れる。アップルパイを持つ指がゆるやかなエクスタシーに痺れて、太郎は擽っ
たそうに笑う。