THIRTEEN




 怖い? 怖くはない。まるで眠るようなものだから。
 死とは。
 まるで眠るようなものだから、恐ろしくはない。しかし今、鏡太郎は目を瞑ることがで
きない。ベッドの上に座り込んでもう何時間も経つ。時間はただだらだらと流れてゆく。
ほんの数秒の記憶の断絶がいかに自分のうちに空漠を作り出したか。柔らかく不透明な亀
裂が胸の上からやわやわと体内を、指先まで侵蝕してゆく。黒いノートを抱き締めた指先
まで、やわやわとした亀裂が、真綿をゆっくり裂くように自分の身体をバラバラにしてゆ
く。
 くっくっくっ、という死神の笑い声はもう聞こえてこない。死神は太郎の背後に立ち、
じっと上から金の眸で見下ろしている。頭頂からひたひたとした寒さを感じるのはこの所
為だ。しかし、いつの間にその寒さが気にならなくなっている。苛められる最期には打た
れている感触も痛みも、とろとろに溶けた脳みそには分からなくなるように。もうどうで
もいい、早く終わってほしいと願いながら蹲る時のように。きっとこの寒さももうどうで
もいいのかもしれない。
 ぐらり、と頭の中が揺れた。闇が前から後ろに流れる。飛ぶように、流れる。
 流れる夜空に飲み込まれたように。息もできない。
 五等星の光さえ見えない闇の中を流される。でも、このままで構わない。
 だって怖くはない。
 まるで眠るようなものだから。
 とん、と身体を支えられて、最初は杭に引っかかったのだと思った。川の流れが止まっ
たと思った。空が見えなくなった。目は開いているのに。どうして。目を閉じても開いて
も暗いのは同じ。怖くはない。なのに何故、僕の瞼は閉じなくて、眠れなくて。僕は。
 どうしてリュークの腕に支えられて泣いているのだろう。
 太郎は大きく咳き込んだ。肺が吸い込んだ息に膨らみ、喉が苦しげに痙攣する。
「面白いな、おまえ」
 リュークの声は咳の向こうでがさついたラジオのように聞こえる。
「せっかく生き返ったのに、自分から息を止めようとしたり」
「息……息、を……?」
「呼吸が段々遅くなって、さっき、消えた」
 そんなこと意識しもしなかった。太郎はまだ咳き込んでいる。リュークの声が止まる。
太郎の身体はベッドから落ちそうなほどに傾き、リュークの腕一本で支えられている。太
郎は藻掻くように指を空中に彷徨わせる。
「大丈夫だよ。もう大丈夫だから。大丈夫なんだ」
 リュークは応えない。
「だって怖くなんかないんだもん。怖くはないんだ」
 まるで眠るようなものだから。
「怖くは…」
「太郎」
 リュークの呼ぶ声に太郎は口を噤んだ。急に身体中から力が抜ける。腕がだらりと下が
った。リュークのもう片腕が伸びて太郎の身体をベッドの上に持ち上げる。
「…怖くない、のか?」
「うん……怖くはないよ」
「ふーん」
 ひゅっと耳元で風が鳴る。目の前が暗くなる。いや最初から暗かった。電気もつけない、
カーテンも閉め切って星の光さえ追い出したこの部屋。でも真っ暗だ。何が。何が。何が。
別に怖くはないのに。さっきまでの暗闇と変わるものではないのに。
 そう、死だなんて。
「リューク!」
 太郎は悲鳴を上げた。自分の両目を追おう死神の手を引き剥がそうと躍起になって爪を
立てる。
「リューク!」
 真っ暗で何も見えない。いや、何も見えないから色など分からない。黒いから見えない
のか白いから見えないのか、もっと極彩色の赤や緑が自分の目を埋め尽くして、だから見
えないのか。何故見えないのかの意味は急速に失われる。見えないから、分かりはしない
し、意味もない。
 死んでしまえば、何もかも無意味だと……。
 太郎の喉の奥から嗚咽が漏れた。太郎はすっかり忘れていた、そういうものがあるとさ
え忘れていた自分の泣き声を聞いた。苛められていた時でさえ溶けてしまった自分の脳み
そに聞こえなかった泣き声。
 熱く、流れるものが、目と、目を覆う乾いた皮膚を濡らす。太郎ははっとした。死神の
手は乾いている。そして冷たい。その事にたった今気づいた。目尻に触れるヒヤヒヤとし
た感触はあのゴツゴツとした指輪だ。そういえばリュークの指は黒かった。黒い指が自分
の目を覆っている。
 太郎の身体はゆっくりと後ろに傾いた。頭が優しく枕に乗った。羽根布団が太郎の体重
を受けてふわりと空気を吐き出す。
「死ぬなよ」
 くっくっくっ、と笑いながら死神は言った。
「おまえと一緒にいるのは凄く面白そうなんだ」
「……リューク?」
「言っただろ、何でも協力するぜ」
 すっ、と目の奥から目の外へ闇が流れた。太郎は何かを見た気がした。何か懐かしいも
のだ。しかしその正体を思い出す前に、意識は、太郎の気づかぬ間に、眠りに溶けていた。


 翌朝、死神はそっと太郎の両目から手を離し、腫れた瞼を笑った。太郎もつられて苦笑
しながら、そっと手を伸ばした。片手に胸の上のデスノートを抱いて、片手を上に伸ばし、
そっとリュークの手に添わせた。
「リューク」
「何だ、太郎」
「おはよう」