GOD AND CHILDREN




 まるで後悔するように白い裸体を見詰めた。ここの空気は清浄す
ぎる。湿気も温度も調節されている、彼らの為に。彼らはこの温度
を感じないかのような温度とスムーズすぎる呼吸を促す空気の中で
じわりじわりと生色を持ち始めた様だった。何を馬鹿な幻想をと思
って振り返ると黒い翼の死神が憑いている。幻想?それこそ背後の
存在を否定できない自分の口にすべき言葉ではない。冷たく冷たく
叩きつけるほどにこの世界は幻想に満ちている。だからこの大理石
の向こうで自分を見つめる二つの眸が次第に生色を失うのも不思議
はない。いや現実のように当たり前のことでしかない。
 木曜日は朝から雲が蔓延っていたが、昼下がりにはぽとりと重た
い滴が落ちた。灰色の空は静かで、街も天から降り注ぐ無音の滴に
沈黙に耽る。音もせずに黒塗りの車は止まり、光のない下で不健康
さがいっそ突きぬけ清潔と錯覚するほどの彼が降りてくる。月は紳
士然と手を差し伸べ、男は指先だけをそわせ、極端に体重を掛けぬ
様それに応えた。男の白い脚はゆっくりと広い階段の中央を上る。
月もまた階段を一段一段、花嫁の手でも引くように優しく、歩調を
合わせる。
 扉を開くと一斉に視線が突き刺さった。その瞬間から後悔は生ま
れていた。来る場所を間違えたと。彼らはこちらを見ていた。性格
には月に手を引かれた男に視線を集中させていた。およそ一世紀以
上前にオーギュストという名の男が創造りあげたそれら人々は、特
別なものを見る目で男を見ていた。自分を通り抜け背後に向けられ
るその視線の不快さ。月はトルソーの前でじっと佇んでいた。それ
でも、この掌に収まりそうなトルソーが血肉を備え、骨を供え、い
つしか視線を向けている幻想に月は畏怖とも嫌悪ともつかぬ感情を
起こされたのだ。
 911で。石膏の崩れるような声がした。カンター・コレクショ
ンというロダンを含む貴重な美術品が多数失われました。顔を上げ
る。大理石の岩に埋まるように蹲った女の背中を越してガラス球が
二つ、こちらを向いている。黒い穴が細く開いて、そこから音は漏
れる。犯罪が奪うのは人の命ばかりではありません。人間が生きて
きたという記憶。魂。そして命の音。夜神君は聞いたことがありま
すか。あの音を。
 ゴソゴソと砂のように音は零れ落ちる。月は呆然と耳から零れ落
ちる砂が靴を汚すのを見ている。すると腕の中に顔を埋めていたダ
ナイードが微かにこちらを振り向いた。この人の言葉を聞かなくて
いいの? 彫刻が喋っちゃいけないよ、と月は言いたかったがダナ
イードはほんの少し破顔ってすぐに腕の中に顔を隠した。
 誰か彼のための台座を。そう囁いたのは白磁のシュゾン。首だけ
の女は男に流し目を送り、柔らかな唇を綻ばせる。神の台座だわ、
上等なもの、一等のものを用意しなければ。
 違う、神は僕だぞ、と月は反論するが聞かない。
 我は疑う、故に神は存在する、と呟いたのは地獄の門を見下ろす、
余りにも有名な男だ。君は自分の不完全さを知る、故に完全者の存
在を証明するのだ。
 完全者という言葉に死神が嗤った。林檎無くしては正気を保てな
い神の一匹。
 月は雑音を無視してダナイードの背中の向こうに視線を戻した。
そこにあるのは、何という材質だろう、病的なほど白く、冷たく、
硬いものでできた等身大のそれは、既に一対のガラス球さえ光を失
って、僅かに開いた黒い穴からはもう音も漏れない。月の耳から零
れていた砂も欠片を残して止まった。
 完全なる逆転が訪れる、それは音もなく、雨の様に降る。
 台座もないのに、彼は、ミュージアムの中心に神の様に降り立っ
た。否。神として降り立った。生気を失った身体はひたすら美しく
完璧で、その中には血も肉も骨も、臓物も、あの甘いものばかり求
める臓物さえ詰め込まれている。
 月は後悔している。地下鉄に乗ってもう幾駅か足を伸ばせばミュ
シャの絵を飾っていたはずだ。何故ここへ来てしまったのだろう。
こうなることは予想できずとも、目に見えてはいなかったか。ロダ
ンの彫刻はいっそ流河よりも生き生きとした肉体を持っているよう
に見えるね。それは冗談だったか。それは陽が東から昇る事を言う
様に、ただの真実ではなかったか。
 ピエール・ド・ヴィッサンの力強い腕が完全者に向かって伸ばさ
れる。求めずにはおられない完璧なものの、形を、魂を抱きしめよ
うと。この世界から決して逃がすまい。
 ライト。
 耳元で死神が囁く。
 ぼやぼやしてると盗られるぞ。
 月は手を伸ばした。まだだ、と死神が嗤う。そうだ、その足で駆
けて行って、それから抱きしめるんだよ。生憎ながら台座に縛られ
た哀れなカレーの市民達、教えてあげよう。神は僕だ。そして神の
眼を欺こうとしたものには罰が下るのさ。腕を伸ばす。右手で抱き
込む頭。意外と上背がある。左腕を背中に回し、首筋の匂いをかぐ
様にそっと抱きしめる。
 冷たい肉体。硬い髪。ガラス球の眸の上にそっと口づける。ああ
冷たくて硬い身体、でもおまえは神ではない、だから早く戻ってお
いで。僕が神だと証明するのはおまえなんだよ。だから、こんなに
もいとおしい、女を、幼子を、キリストを抱くようにおまえを抱い
ている。
 どうしたんですか夜神君。雨の降るような微かな声が男の口から
漏れた。月はそれを自分の唇で塞いだ。