夢の隠れ家/世界の裏側







夢の隠れ家/太陽


 螺旋階段の中央を貫く空洞を真っ直ぐに落ちて大理石の白い床の上に砕けた明るい午後の陽が出迎える。長い長い夜と霧雨に煙る朝を抜け出した傷だらけの身体は、慣れ親しんだ屋敷の見知らぬ一角で立ち止まった。彼は幼い頃からこの屋敷に住みながらいまだその全貌を知らなかった。ある夜食卓で、またはベッドに続く階段の途上で、そしてシーツの上で語った言葉は嘘ではなかった。私はこの場所を知らない。
 ブルースは顔を上げ、螺旋階段を、遥か頭上を見上げた。窓はその形を露わにせず、ただ白熱した陽が階段の昇り詰めた先にあった。彼はマーブルの上に散らばる陽を黒い靴底で払った。陽の欠片は笑い声を転がして階段の影の下へ散っていく。ゆっくりと靴をどけた、その下には何もない。光の砂も無邪気に笑ったままの死骸も。陽は死ぬことがない。まさか。太陽にも寿命がある。空に輝く全ての星は赤く燃えて役目を終える。いつか。遠い遠いいつか。誰を護ろうか…、とブルースは呟くように思った。泡のような思考だった。思い出した時には消えていた。何かを考えていたという記憶だけが残った。一瞬、私は儚いもののことを考えた。それが何だったかを覚えてはいないが…。彼は靴を脱いで螺旋階段を昇り始めた。靴の上には陽が降り注ぎ、一階上がる頃には白く塗り潰されて見下ろすブルースには見えなかった。
 階段は明るく、靴下を越して足の裏に触れる絨毯は冷たかった。明け方の丘だ。昨夜の露をたっぷり吸って、世界が目覚めるよりも早く生まれた新しい緑の野。私は走ったことがない。だがそれを私に語った男ならいる。彼は己のものではない朝焼けの野を踏みベッドに向かった。真新しく広げられた白いシーツに身体を投げ出すと、耳元に陽の砕ける音がした。見知らぬ記憶は疲れ果てた彼の肉体に染み込み、神経へ慈雨のように降り注ぎ、血管を緑の匂いの風のように吹き渡った。それは彼の頬を優しく撫でた。瞼をくすぐり、ほんの少し彼に目を開かせた。彼は天井を見た。そこにはいなかった。いなかったはずなのだが影があった。彼が手を振ると相手はやあと微笑んで返した。
 ブルースは身体を起こさなかった。電話にも手を伸ばさなかった。彼の名さえ呼ぼうとしなかった。軽く目を伏せたままネクタイを解き、ベルトを寛げた。そして手を伸ばし己の掌で触れる。それだけで十分だった。部屋にもシーツにも男の痕跡はなかった。当然だ。ブルース本人も初めて訪れた部屋なのだ。そして服にも、襟に袖に、カフスボタン一つ取ったって男の匂いの残るものはなかった。全てブルースのものだった。ブルースを構築するブルース自身のもの全て。男は瞼の裏にさえ登場しなかった。幾層にも重ねられたブルースの心の奥底にだけ、男はいるのだった。絶え間ない息をしていた。寝息のように優しく炎のように熱い息だ。それを包み込むようにブルースは掌で己を包み込み、詰めていた息を吐いた。炎の端が唇を焼いた。それを閉じて留める唇が微笑んでいることに彼は気づいていなかった。親愛なるカル・エル…。ブルースはセックスを必要としたのではなかった。これこそが必要だった。掌の中に包み込む夜明けの丘、深緑の野、見知らぬ遠い星の終末の炎。その全てが親愛なる彼の男だった。愛しているという言葉が耳元に囁かれたどんな瞬間にも増して染み込み、血がじわりと熱を帯びる。流れ出せば大理石の床にこぼれてまた新しい星が生まれるだろう。私はそこで永遠に生きようと思う。永遠に、親愛なる男を愛して。
 くしゃくしゃのシーツの上に丸まり、目を覚ましたのは日暮れのわずか数十秒前で、冷たい風が傷が乾いたばかりの背中を撫でた。彼は慣習的にドアを開けた。その向こうには見慣れた浴室とバスタブがあった。熱い湯が冷めて乾いた身体を包み込んだ。湯気の向こうからアルフレッドの声がする。ブルースは返事をする。湯気を越して鏡の中の自分がこちらを見つめている。それは薄暮に青ざめていた。食事が必要だった。それから薬。暗闇の時間がやって来る。夜がやって来る。悪と蝙蝠の時間がやって来る。薬も食事もアルフレッドが用意していた。ブルースはバスタブから重たい足を持ち上げて冷たい床を踏んだ。裸の背中は午後の気配に背を向けた。彼は反対側のドアからアルフレッドの呼ぶ方へ浴室を出た。
 それからクラークに会うまでその日の午後のことは思い出さなかった――そして思い出しても彼は表情一つ変えなかった、クラークの目にはいつものつんとした、やや不機嫌そうなブルースの顔が見えるばかりだった。あの部屋も見つからない。ブルースも探さない。しかし彼の脱ぎ捨てた靴は螺旋階段の中央を貫く空洞の下、今もあり、うっすら埃を被っている。



世界の裏側/月


 夜の空気は柔らかくベッドを包んでいた。上着を床に落とせば、それさえ六分の一の重力で絨毯の上に横たわる。窓の向こうは夜が白く輝き人の気配も生き物の気配もなかった。なんと眺めのいい部屋だ。屋敷を囲む森は銀細工の森だった。凍てつく冬のそれとは違い、年を経て命が抜け去った後の化石の森だ。白く硬い針のような葉が空から降る月光に耐えかねて時々シャンデリアの砕ける音を立てた。海はとっくに白く乾いた砂漠と化している。大波はそのまま砂丘となり、うねうねと続く白い山脈は遠く東の黄金の都まで至る。そこはまだ誰の足跡にも汚されていない処女雪よりも白い。ブルースは息絶えた世界にほんのわずかな時間、額を預けた。ガラスを越して静寂だけが、温度のないフラットな永遠だけが彼に呼びかけた。ブルースはシャツ一枚を羽織った身体を白銀が砂のように散らされたベッドに伏せた。窓ガラス越しに見下ろす月は優しくまばたきをした。
 一人分の吐息。今度はいつまで眠ろうか。悪党の息絶えたこの世界で。次はどれだけ眠ればいいのか。自分の目を覚まさせる悲鳴は銃声は、躁病の笑い声は耳を叩くだろうか。否、それらは全てブルースの頭蓋の中に木霊する昔の記憶だ。遠い記憶がブルースを揺すぶり起こす。バットマンであった自分が老いたブルース・ウェインの肉体に爪を立てる。目覚めろ、目覚めろ、立ち上がれ。悲鳴を全て消し去るまで私は眠ることを許されない。そのとおりだ。ブルースは立ち続けなければならない。悪党が消えたこの世界にも。この心臓が停止して血液の送られなくなった脳が鮮やかな木霊を暗い霧の中に沈めてしまうまで。痛みをブルースは恐れていない。だからきっと死の瞬間も…。
 湿った息と欠伸が掌を撫でた。ベッドから落ちた手を舐めるのは生きた動物の舌だった。ブルースはベッドに伏したまま眉間の皺も解かず呟いた。
「エース」
 彼の忠実な友は濡れた鼻を老人の乾いた掌に押しつけ、ふっ、ふっ、と吐息で笑った。彼は執事が――アルフレッドが生きていたならばきっと許さなかっただろう行動を取った。それはささやかな行為だった。彼は腕を持ち上げベッドとの間に隙間を作った。ベッドに飛び上がる様は素早く、しかしブルースの腕の下に納まる時はのっそりとやや勿体ぶって彼の犬は主人であり唯一の友であるブルースと伏臥の身体を並べた。
 ここは地球の裏側だ。世界を裏返した孤独の世界。本来は何人たりともその扉を開ける資格は持たなかったブルース少年の死の世界。もしあの夜路地裏でウェイン夫妻と共に幼い少年も死んでいたら。凶弾が貫くのはブルース・ウェイン少年の心臓だけではない。命。未来。バットマンという存在。その全てを打ち砕き悪の跋扈するゴッサム・シティは悪の手によって滅亡しまた悪も己ら悪の重力によって崩壊するだろう。後には何も残らない。人も、街も、つんざく笑い声の木霊も。夜の街にあれほど響いた道化の哄笑さえ息絶えた世界。ここはバットマンのいる世界よりずっと穏やかでずっとずっと清浄だ。万年の孤独だけが月の光を浴びる。死んだブルース・ウェイン少年の眠れる魂だけが。
 異議を唱えるようにエースが唸った。欠伸をしたのだろう。ブルースは重たい瞼を開かず、ただ掌だけで愛犬の頭を撫でた。乾いた皮膚に艶やかな毛皮の感触。毛の下には生温かい膚があり、ぐっと力を入れれば血液が流れるのもまだ感じ取れた。犬の膚とブルースの掌の間には生きたものの蒸気が満ちていた。犬の汗。ブルースの乾いた掌から絞り出される汗。犬の膚から立ち昇る匂いの粒子がブルースの掌に汗を滲ませる。体温はエースの分け与えてくれるそれと同じになってゆく。
「エース」
 主の言葉に犬は小さな返事をした。
「朝が来たら起こしてくれ」
 犬の目が自分を見つめているのが分かった。親友の視線。果たしてそんなものを知っているのだろうか。闇夜の孤独と研鑽の日々。ブルースは何者も必要としなかった。必要ではないと考えていた。
 うっすら瞼を開くと、友の瞳もまた夜の眠りに抗いきれず半分ほど伏せられていた。しかし睫毛に縁取られたその下から見上げるのは間違いなく親友の瞳だった。
 窓のガラスが震えた。白い砂丘が次々と崩れ落ち波音となって屋敷に押し寄せた。針葉樹の森は一声に震え崩れ落ちる影から無数のコウモリが飛び立った。窓から射す月の光を遮って無数の影はブルースと親友の上を横切った。
 エースは疲れ果てた友にキスをした。約束を守るという証だった。重たい瞼が閉じて老人がか細い寝息を立て始めても半分伏せられた瞳のままでエースは彼を見守り続けた。コウモリが飛び去った後の窓はいつものようにゴッサムの果ての曇天に濁る。海鳴りは激しく針葉樹は雨まじりの風に嘆き頭を揺らしていた。
 古いが立派な屋敷だった。ドアは軋み一つ上げようとしなかった。早朝の草原を歩くような足取りは屋敷の主にも、忠実な彼の愛犬にも気づかれずベッドの脇まで至った。広く、肌の色は白くまた血色がよく若々しい手は絨毯に脱ぎ捨てられた上着を手に取りあるべき場所へ収めた。洗練された手つきがクローゼットの扉を閉じ、振り返る、その瞬間溜息が堪えられる。一秒、二秒とカル・エルは息を止める。彼らの友情の時間がどれほど長いものであったかを表す彼の皺を数え、じっと見つめる。
 枕元に近づくと忠実な番犬はカルを睨みつけた。彼は友情の証にウィンクを一つ贈り、身を屈める。老ブルース・ウェインの乾いた寝息が鼻を掠める。彼は故意に作られた眉間の皺にキスを落とした。そしてエースと友に忠実なる友情を持ってその皺が解けていく様を見守った。齢八十を過ぎ、老いたブルース・ウェイン。その顔に失われた孤独な少年の寝顔が、寂しげな寝顔が蘇った。たまらず唇に触れると顎の下を犬の毛がくすぐった。カルは微笑み、寂しさに瞼を伏せ、また微笑みを蘇らせて老いた者の眠りから静かに離れた。
 カル・エルの去った扉を番犬は振り向かなかった。しかし窓を見上げた。睫毛に縁取られた瞳を見開いて。すると曇天の中飛び去る影があり、視線がこちらに向けられているのが分かった。エースは尻尾を一振りして、ブルースの傍らで眠りについた。空を飛ぶカル・エルの瞳に自分たちの姿が映っていることはよく知っていた。挨拶だ。
 おやすみ。