グッバイ

セント・ジェームス・インファーマリー・ブルース







 尾けられているのか。ブルースは立ち止まる。しかし足音は止まない。濡れたアスファルトを気怠く叩き続ける。夕暮れ時に降った季節より早い霙が道路脇に水溜りを作り、時々それを跳ね上げる車と泥水をひっかけられたホームレスの応酬が響いた。しかし靴音は痙攣的な悲鳴にも煩わされることなく続いている。近づく気配はない。
 はは、とブルースは乾いた笑いを吐き捨てた。セント・ジェームス・インファーマリーのブルース。路傍の歌い手はそれに合わせて靴を鳴らしているのだ。あの娘の亡骸に会いに来たのさ…ここは貧しい病院の冷たく白いテーブルの上…。
 憂鬱になる歌だ。サッチモの演奏にはケチをつけられないのだが。ラジオが鳴らす憂鬱なトランペットに歌い手の――きっと若い、ホームレスの――男は歌声を添わせる。ブルースは歩き出す。自分の足音が鼓膜に響けば、もう気怠い靴音を警戒する必要はない。グッバイ・セント・ジェームス・インファーマリー。
 だから夜中にやってきた男が靴音を立てず窓の外から携帯を鳴らして知らせたのはなかなかの出来だと、ブルースは上機嫌だった。自分から会いに来たのに歓迎されるとは想像もしていなかったらしい、クラークは勢いよく開いた窓に逆にためらって、やあお邪魔するよ、と控えめに窓枠を跨いだ。
「邪魔を?」
 ブルースは空飛ぶ男を投げ飛ばすようにベッドに乗せ、邪魔をするつもりで来たのか、と笑った。
「何の邪魔を。私の安眠か。それとも悪夢の邪魔をしに来たと。心配はいいらない。いたって穏やかな夜だ」
「君はそんな風には見えないけど」
「そうかね?」
 そう見えるのかお前には、と窓枠を跨いだ脚をがっちり挟み込んでやれば何をされるのかとクラークは諦めに似た愛想笑いを浮かべる。
「いいことでもあったの」
 ぼくが来たことが? とは言わないのがクラークの美徳か。
「は」
 ブルースは乾いた笑いを掃き出し、唇の上でそっと囁いた。
「憂鬱な夜だったさ」