軽率な手







「お前は私に触れてはいけない」
 明確な拒絶に、徹夜明けの少しくたびれたスーツを着た男は戸惑いを見せた。それは朝の光とハンバーガーで笑みを形作った顔に少し、眼鏡の奥の瞳に大いに。ブルースは背を向け、同じ言葉を繰り返す。自分の声が遠くに聞こえる。黄色い太陽は頭痛を響かせる銅鑼だ。
 立ち去らなければ、あの手が警告を無視する前に。無視をするだろう。この男は。腹立たしいことだった。己の命を省みない、無鉄砲に行使するだけの力を持った超人。それが無邪気に笑いかけるのが我慢ならない。優しげに手を差し伸べるのにいたっては怒りを通り越して鳥肌さえ立つ。
 黄色く濁った視界のまま、一刻も早く、ここではない場所へ。
 お前は私に触れてはいけない。
 警告だ。自分自身への。

 スペイン語にまじって時々アジア系の言葉が聞こえてくる。ハングルだと思うが聞き分けがつかない。アルコールで重たい頭を転がし、光と薄影の間を迷走している。リアルな夢を見ているのか、それとも眠ってなどいない、これが現実なのか。
 鼻に残る香水の匂いはシャネルの、最近誰も彼もがつけているもので、女の顔が昨夜の記憶と一致しない。多分、取引先の令嬢だったはずだ。7月9日大通りに面したビルの上階で、オレンジ色の夜景を背に女の肢体が浮かび上がった。女の肩の向こうを見れば、白いオベリスクがそそり立っている。だから多分、ここはアルゼンチンのブエノスアイレスなのだろう。だとすれば取引先の令嬢の数も絞られてくるし、まして7月9日大通りに面した部屋を取ってくれるなら…ビンゴ、彼女だ。やっと思い出した顔と身体。名前は企業名と頭文字しか思い出せない。Mと呼べば十分、女は喜んだ。
しかしここは令嬢Mが用意した部屋でもない。何故なら聞こえてくるのがハングルだから。ここはどこだ。口に残るぬるいビールの味は? 社宅らしい、狭く画一的なデザインの部屋だった。壁紙は薄い緑。窓の格子が影を作っている。五かける三の長方形を見つめるうち、囚人になったような重たい気分になった。
 身体を起こしたものの、ベッドから立ち上がれない。背を曲げ、両手で顔を覆う。裸の背中をぬるい空気が撫で、時計を探す。自分の手首にも、部屋にもそれはない。窓の外から聞こえるラジオはスパニッシュで、音楽の合間にがなり立てた数字から察するに正午も近いようだった。ハングルのお喋りはいつの間にか消えていた。
 ラ・ボカ地区のあの色鮮やかな壁ではないが、下町ではあるらしく、窓の外には背の低い建物が軒を連ねている。しかし自分のいる部屋はヨーロッパの匂いがした。古い建物なのだろう。壁紙ばかり新しく貼り替えたのは寧ろ下品と言わざるを得ない。社宅ならばそんなものか、と考えたところでブルースはふと顔を上げた。まさか。あの笑顔に出くわすのが嫌だから特に世界の危機でなくとも南米くんだりまで来たというのに、こんなところまで追いかけてきたのか、お前は。
 立ち上がり、壁にぶつかって転がっている靴に裸足を突っ込んで、重たい足を運ぶ。嫌だ。現実を目の当たりにしたくない。昔から現実というものは常にブルースに対して厳しく、冷たいものだった。だからこそ人間の肉体で戦うことを望んだ。常なる世界を超えることなく、人間の力で勝ち取ってこそ、正義には価値がある。神の救済を否定しはしないが…それはずっと先の物語だろうから。この重たい肉体も、拳を作れば戦うことが出来る。立ち向かえるんだ、私は。だから直視しなければならないのだ。
 ソファから滑り落ちそうになりながらクラークが眠っている。抱いているのはベッドの上に見つからなかった自分のシャツと上着だった。眼鏡だけ、フライングをして床の上に転がっていた。ブルースは枕元に佇み、右足をそっと持ち上げた。踏み潰してやろうか。緑の壁紙の上に、ここにも格子の影。窓の外で何かが光っている。街角のミラーか、向かいのビルの窓か。ラジオはいよいよ正午の放送に入った。景気のいい音楽。昼食と音楽。ワインと音楽。音楽だ。
 ラブソングの歌詞をブルースは追いかけない。しゃがんで拾い上げた眼鏡を右手に。左手ではシャツと上着を奪い返す。それでもクラークは起きなかった。ビールの空き瓶がそこら中に転がっている。自分もこれを飲んだというのか。記憶にない。たとえあっても忘れたままでいい。
 狭いキッチンのグラスの中に眼鏡を放り込んで、水で浸した。冷蔵庫の水は頭痛を追い払うために全て飲んだ。後でクラークが苦しむかもしれないが――まさか、そんなことがあるのか――しかし構うものか。苦しむことができるなら、お前も苦しむがいい。私と同じように。
 部屋を出る。暗い階段を下りて、日射しの下に出た途端溶けるような心地がした。音楽はいい。もう一杯の水を。できれば炭酸入りを。頭の中にインプットされた地図を辿り7月9日大通りを目指す。今日こそは令嬢Mの用意した部屋で眠ろう。女の求めるだけしてもいい。昨夜の記憶を封じたままでいられるのなら、女王様にでも仕えよう。古い建物の匂い、街路樹の影の下から自分を見つめる視線。拳を作るのも億劫だ。早くタクシーを捕まえなければ。
 背後からブルースと呼ぶ声がする。きっと窓を開けて、鉄格子の向こうから呼んでいる。眼鏡なら落ち着いてキッチンに行けば見つかるぞ。そうアドバイスしてやってもいいのだが、大声が頭に響く。癪だ。教えてやるものか。苛々と足を速め声から遠ざかる。ラジオが笑う。ワインとセックスと音楽。どこかの紙屑のような新聞の三文記者の書いた見出しみたいじゃないか。やめてくれ。水と沈黙と静寂だ。背中を愛しげに撫でるあの手から、私は逃げなければならない。そのために南米くんだりまで来たのだから。
 タクシーの後部座席に転げ込む。広い7月9日大通りを北へ走らせながら、運転席の座席を蹴り、ラジオを黙らせた。