白い陶器と緑の影







 ガスの火がゆらゆらと揺れている。ガラスのホヤの中で今にも消えそうに揺らいでいる。窓の外は音もない雨のようで正方形の窓枠に区切られた黒いタイルのような夜の中を銀色の針が降りしきる。バスタブの縁に手をついて身を乗り出し下部にほんの少し隙間を空けると吹き込む冷たい風が白いカーテンをゆらゆらと揺らした。それはガス灯の明かりで緑色の影を落とした。バスルームはぬるい空気が掻き回され、森の匂いが眠気にぼんやりしていたブルースの頭を少しだけ目覚めさせた。
 鏡の中に映る顔は疲労で重たく両頬の肉を垂れさせている。まばらに生えた無精髭を掌で擦れば目が自然と剃刀を探したが反射する鈍色の光はそれを手に持たせなかった。夜が明けてアルフレッドに頼まなければ。
 肉体が睡眠を必要としていた。だが同時に戦い続ける精神力を欲しているのもこの肉体だった。半覚醒の真夜中に精神と肉体は一致し、ブルースに声を叩きつけるのだ。悪を滅ぼし尽くすまで私は戦わなければならない!
 ブルースはのろのろとボタンを外した。脱いだ服を空の全てバスタブに落とし一糸纏わぬ素裸になったブルースは便器の前に佇んだ。溜息が一つ漏れた。己を手で支え一点に目標を定める。水音がとぼしく世界に響いた。己が一個の肉体を持つ一人の人間に過ぎないことは分かっていた。自分は超人ではない。超越した能力を持っている訳ではない。だが、何だというのだ。世界の片隅に一人生きる人間が何もし得ないと神は思っているのだろうか。
 大きな影がガスの灯を遮った。古い壁紙の上に巨大な影が浮かび上がった。野ネズミ。イタチ。フクロウ。羽ばたきが聞こえる。死を誘っている。窓ガラスがガタガタビリビリと音を立てて震えた。カーテンは大きく翻り緑色の影がフクロウの羽根と踊った。
 水音は途切れている。落ち着きを取り戻したガス灯はガラスのホヤの中で柔らかく燃えていた。雨はほんの少し強くなった。雨音がさあさあと屋敷の壁を打った。ブルースは手の中のものを振って滴を切ると、全てを水に流した。匂いも消えて、バスルームには窓から吹き込む森の匂いがひっそりと満ちる。
 古いドアは心臓に悪い音を響かせた。ベッドの中の男が目を覚ましはしないかと、それはそれで面倒なことだと思ったが、憎らしいほどの安眠をクラーク・ケントは享受していた。広いベッドの片端へ男の身体を押しやり、ブルースは裸の身体をシーツの間に滑り込ませた。アルフレッドのこと、ドアの蝶番のことを考えたが、睡魔は既にそれを白く塗り潰そうとしていた。否、それさえ塗り潰される。巨大に膨らんだフクロウの影。
 ブルースは窓に背を向けヴィクトリア調の壁紙に敷き詰められた闇の中へ己の眠りを落とした。背後から体温の高い腕が抱き締めたが無視をした。
「ブルース」
 その声は確かに自分を呼び止めようとするものだったが、振り返りたくはなかった。寝息が背中の傷をくすぐった。ドアの隙間にガス灯の緑の影が細く揺れた。