老いて目覚め麦の野に立ち







 黒い影を追い昏き荒野を行け。私には最初からそれが示されていた。私が手に入れたものはそれで、己の知る限りそれは世界の総てだった。申し分なく、私は幸福である。
 目が覚めてみると薄曇りの空が窓と部屋をモノクロームに染めていた。ブルースはしばらくベッドの上で動かなかった。胸の上に両手を組み天井を見上げていた。
 彼は夢の中で呟いた言葉を反芻していた。言葉を頼りに彼は夢の世界を手繰ろうとした。昏き荒野に落ちる黒い影。私はそれを追いかけていたはずだと。しかしそれら単語は床に落ちたのを気づかないまますっかり乾燥したシリアルのように味気なく埃を被っていた。ブルースはそれを手放すことにした。老いた自分には時間がないことを分かっていたから古ぼけた言葉を捨てて自分が本当に手繰り得たものを見つめることにしたのだ。
 麦の畑が広がっている。ブルースはモノクロームの天井に描いた。昨夜の夢を思い出そうとしているのに、目の前に広がるのは黄金の麦の畑だった。見渡す限りそれは広がっていた。思い描いた景色の中振り返ると大きな赤い納屋が見える。農家はその傍らにどっしり座っていた。これは私の知る限りの世界ではない。だとすれば遠い星の風景なのかもしれない。同じ地上にこんな場所があるなんて。ゴッサムシティの外に人の生きる場所があるだなんて。
 学校帰りの青年が畑の間の路を、坂をものともせず駆け上がってゆく。ブルースは青年を見送った。あの青年が振り返らないのはまだ私を知らないからだ。けれどももし振り返ったら。
 傍らで犬が吠えた。青空に向けて銃でも放つように。高く吸い込まれる声に惹かれ、青年が振り向く。そしてブルースの予想したとおり、笑う。
 彼は二度、三度とまばたきをした。視線の先にはモノクロームの天井が蘇っていた。軋む身体を起こしてベッドの端に腰掛けたまま杖にもたれること数分。それから立ち上がり、鍵のかかっていない窓を掌で押した。窓はブルースの身体と同じように軋みを上げながら開いた。降り出す前の風が吹き込む。ゴッサムの排煙と排ガスまじりの風。途端に金色の畑の青年の笑顔も消え失せた。彼は襟を抓んで匂いをかぐと残念そうに手を離した。あの匂いは失せてしまった。自分を昏い夢の奥から引き摺り出して夜明けまで短い安眠を与えてくれた匂いは。
 空飛ぶマントがはらむ季節の匂い。風の匂い。ブルースは開いた窓を指でノックする。挨拶もせずに帰った男への非難だった。こうやって呼べば彼は駆けつける。どこへいても。来て欲しいなどと思ってはいないのだが。むしろ来たら腹が立って殴ってしまうかもしれないのだが。 彼方で雲が破れヤコブの梯子が地上に降りる。その光を縫って翔る黒い影をブルースは見る。モノクロームの世界は窓の向こうから壊れ始めている。




2016.9