良い夜だ。
 プロレス観戦の熱気冷めやらぬまま世界の滅亡を阻止し――いや冗談じゃないんだ、本当に化粧
圧塗り黙示録野郎とそれを操る悪魔をやっつけたんだってば、プロレスでね。そりゃプロレスにし
ちゃあイレギュラーな部分があったことは否めないが、世界の滅亡がかかってるんだ、そこは目を
瞑ってくれてもいいと思うな――そして、二人同時に女の子からフラレた。そんな――良い夜だ。
 彼らは夜道を歩く。足音からしてとぼとぼと勢いがなかった。これは世界の滅亡を阻止した男の
足音ではないが、女にそっぽを向かれた男の足音ではある。ははあ、二人とも影が肩を落としてい
る。クォーターバックと会長の肩じゃないね。
 風に乗ってポップコーンとコーラの匂いがした。公園でのドンちゃん騒ぎの名残だ。爽やかなそ
よ風に流されてアスファルトを滑るように飛んでゆくポスター。何がドクター・アポカリプスだよ。
トミーの足がそれを蹴る。所々破れ穴のあいたポスターはカサリと音を立ててマートンの行く手を
遮った。マートンが足を蹴りだす。しかし穴あきポスターはそれをヒラリとかわして街路の隅っこ
に逃げていってしまった。
「クソッ、ああ、もうっ」
 マートンが短く罵りの言葉を上げる。無闇に舗装された道を蹴っても、傷つくのは自分の靴だけ
だ。細かな傷がいくつも踵に入った。ガリリと音がして靴底の溝に砂利が入った感触もする。
「ああーっ、もうっ」
「落ち着けよ、マートン」
「落ち着いてるよ、足が勝手に暴れるんだっ」
 そう言って更に奇声でも上げそうな勢いのマートンだったが、不意に肩を落とし、またとぼとぼ
と歩き出した。トミーもそれに続く。すぐに肩が並んだ。パイナップルのように逆立ったブルネッ
トが4インチの身長差をいささか緩和する。けれども落ちた肩は自分のそれよりぐんと下にある。
「元気出せよ。気分なら、僕だってご同様なんだから」
「…そりゃそうなんだけどっ」
「世界の滅亡を阻止したのは僕ら。僕らは英雄。そしてマートンから言葉をくれた。僕らの友情は
修復された。より強く結ばれた。――良い夜だよ」
「…………」
 マートンは口の先でブウッと音を出してみせた。
「マートン?」
 せかせかせかと冷たい足取りでマートンは先を行く。街灯に照らされた冷たい顔のアスファルト
の上にカラフルなゼリービーンズが落ちている。そのいくつかをマートンの足が踏んだ。
 地上に様々な人々。たまに踏みつけられることもある。それくらいのことは覚悟しなくちゃいけ
ないことで、何故かって煌々と光る街灯の上にはのっぺりとした書き割りのような黒い空しかない
からだ。実に僕らの世界を取り巻くものは不確定、そして不平等。何が起こるかわからなくて……、
そして街灯の光が届かないこの身体の中に潜むハートもまた不平等に感情を傾け、不確定に何をし
でかすか分からないのだ。
 大また五歩で歩けば追いつく。その最後の一歩を我慢して、少し後ろから声をかける。
「マートン!」
 息を潜め、祈る。どうか、今だけは変身しませんように。
 大また一歩。
 腕を引っ張り、思わず振り向いた顔の、あやうく額にキス。唇とはいかなかったが、まあ上出来。
 かあーっと首筋から額までマートンの白い肌が一気に赤く染まり、酸欠の魚のように口が大袈裟
に開閉した。
「ば、ば、ば、バカバカバカバカ、トミーの…トミーの…トミーなんてっ……!」
 そこで赤い顔は情けなく泣き崩れ、マートンはトミーの胸に顔を押し付け、ぐったりと抱きつい
た。
「ちっとも友達じゃないじゃないかぁ……」
「そりゃそうだ、より強い友情で結ばれてるって言ったろ」
「友情のキス? 冗談じゃない!」
 マートンがそう叫んで顔を上げた。襟首を掴み、目を瞑る。
 1、2、3………、9、10、11……、たっぷり17秒。
 目を開けたとき、そこにいたのは狼男だった。
「…どうりでチクチクすると思った」
 マートンが少し笑った。

          *

「僕の前だけに狼男が現れた、なら、うん…良い夜だね」




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