20代編 3
ジンは息を止めた。二回繰り返されたノックの音が耳の奥に響いていた。トイレは電気をつけていなかったが背後の換気扇から漏れる早朝の外明かりで、ドアの輪郭がぼんやりと灰色に見えた。じっとドアノブを見つめる。鍵はかかっている。 心臓が早鐘のように打っていた。身体の中で鳴るそれはうるさいほどなのに、ドアを挟んだ沈黙は耳に痛いほどだった。 トイレのドアをノックする人間は、ホラー映画で見かける要素を理性で排除する限り、決まっている、一人しかいるはずはない。 「ジン」 ドア越しにユウヤのくぐもった声が聞こえた。 ジンは息を止めていた。とにかく充血した箇所から意識を逸らさなければならなかった。静かで深く長い呼吸を一つ、二つ。 大丈夫だ。 「すまない、もうちょっと待ってくれないか」 よし、普通の声が出た。ドアの向こうは静かだ。頷いて立ち去ったのだろうか。 ――いや、 ユウヤはまだドアの外にいる。待てないのだろうか。まずいことになった。 ジン、とユウヤがもう一度呼んだ。 「見てもいい?」 瞬時にその言葉を理解し、否定し、改めて考え、出た結論はやはりユウヤは自分の異変に気づいていて、朝トイレで何が行われているのか知ろうとしている、ということだった。 羞恥だろうか、一瞬また全身が熱くなり、ジンは屈みながらドアに手をついた。 「すまない…」 「…苦しそうだ」 ドアに向かって囁きかけるユウヤの声はジンの耳だけでなく胸も震わせた。ユウヤが自分を気遣う言葉をかけた。もっと感動していいはずなのに、シチュエーションがそうさせない。 「ジン、手助けが必要なら呼んで」 そう言い残してユウヤの気配が去る。ジンは暗く冷たいタイルの床に蹲り、今の言葉を反芻していた。ユウヤが心配し、自発的な行動さえ起こそうとしたのだ。だがしかし、かけられた言葉は決して意図されなかったものにしろあまりに皮肉で今のジンに追い打ちをかけるものだった。 パジャマの中に手を突っ込み、ジンは固く目を閉じる。 ――バンくん、僕はどうしたらいい……。 遠い空の下の親友に呼びかけるも勿論答えはなく、彼は自ら決断し、自らの手でそれを終わりに導くしかなかった。 今世紀最大の風穴が胸に空いた。 トイレから出るとユウヤが紅茶を用意して待っていた。 「大丈夫?」 わずかに瞳を曇らせている。 「…もう、大丈夫だ」 ジンは相手を安心させる微笑みを浮かべ、紅茶を啜った。それはイェーテボリの小さなLBX部品工場の工員と言うよりも、シュトゥットガルトのビルの最上階から街を見下ろして微笑む社長の優雅さに満ちていた。 虚しさが風穴を空けた分、頭も心もすっきりしていて、その日の仕事はやけにはかどった。工場長は「憑き物が落ちたみたいだぜ?」と表現した。 「憑き物、ですか」 昼の弁当を食べるために工場外の古タイヤに腰掛けていた。最近はよく並んで食べる。ユウヤは紅茶で、老人は煙草で食後の一服の最中だった。 アルミの灰皿に短い煙草を押しつけ、年長者はにやにや笑いながら言う。 「最近、目が血走ってたからな」 「まさか…」 ジンが狼狽すると、冗談だよ、と白い髭を撫でた。 「私生活は好調か?」 「いつも通りです」 「いつも通り絶好調って訳だな。恋人と上手いこといってんだろう」 「え…?」 「ほれ、高台の町に自転車で手紙配ってる髪の長い郵便屋。あっちには娘の家があるんだ」 「彼は…」 「彼じゃなくて、ユウヤだろ。ユウヤ」 名前も知っているのか。 ジンとユウヤが朝の通勤で一つの自転車に乗っているのは界隈では知られていることだし、ユウヤが郵便配達の途中で名前を訊かれて素直に答えるのもこの一年であったことだろう。だからと言って…。 「…恋人!?」 「驚くタイミングが遅くねえか」 工場長が呆れながら新しい煙草に火を点ける。ジンは掌にふき出た汗を作業着で拭った。 「いや、彼……ユウヤは…」 改めてユウヤとの関係を説明しようとした時、ジンは考えなければならなかった。 同じ痛みと悲しみを分け合う魂。命を懸けて人間らしい幸福へ導くと誓った相手。この世でユウヤほど大切な人間はいない。ユウヤは自分の人生だ。 ユウヤは、 ――この街に来てからは、本当に、僕の家族で…。 ユウヤは、 ――僕の人生…。 「ユウヤは、僕の…」 老人はぷっかりと煙の輪を吐き出し、にんまり笑った。 「天使なんだろ?」 その瞬間、頭の中の景色が塗り替えられる。これまで過ごして来た毎日が不意に光と共に降り注いでジンを包み込んだ。呆然としてしまうほど美しい景色だった。 「………そうです」 魂を奪われたかのようにジンは口にした。 年季の入った作業服を着た老人はぽかんと口を開けてジンを見た。口からもわもわと白い煙が立ち上る。 「どうしたんですか」 「いや、お前もちったあ若い者らしい…いや、うん、よし、よし」 一人で納得し、工場長は古タイヤから立ち上がる。 「色ボケして昼からの仕事で怪我ぁするんじゃねえぞ!」 急に強い口調で言われ、指をさされた。 「はい」 ジンは立ち上がり、頭を下げた。 「ありがとうございます」 「…日本人ってのは分からねえ」 おもしれェなあ、と声を上げて笑いながら立ち去る油だらけの作業服の背中を見て、ジンは決めた。これで自分の気持ちは分かった。もう逃げるのも誤魔化すのもやめだ。ユウヤの気持ちが分からないこの関係を恋人と言うことはできなくても、互いに人生を分け合った大切な相手だ。そのユウヤに不誠実な向き合い方はできない。 目を逸らさずに教えよう、これが一体何なのか。 ――今度、機会があれば… 心の中で付け加えた一言は先送りの言い訳のようだったがジンは本気で、朝からでは時間がないから週末だったらありがたいのだが、などと考えた。 工場から怒声が聞こえた。いつの間にか昼休みが終わっていた。 それが善しか悪しか、決意した日からジンの身体はおとなしいものでいつも通りの朝と夜を繰り返す。それこそ思い悩んでいた頃のジンが切実に欲していた平穏な朝が。 もしかしてこのまま何とかなってしまうのではないか、というのは甘すぎる考えであり、太陽の巡る限り不変はあり得ない。更に言うならば太陽が尽きてもやはり不変はあり得ないだろうとジンは思うのだが、それはそれとして。 変化は郵便受けに入っていた。 夕方、急に暖かくなったので作業着の袖を捲った。日の落ちるのが少し遅くなった。花屋だけでなく街角にもいっぺんに花が溢れる。ごみごみとした裏通りにも、アパートの窓や食堂の入口など植木鉢を見かけた。先に帰り着いたのは珍しくジンの方だった。アパートの一階に並んだ郵便受けの一つ、習慣的に扉を開けると薄っぺらな小包が入っていた。 郵便受けに入っているのは月々の請求書くらいなもので、小包は初めてだ。しかも。 「ユウヤ宛て…?」 差出人の欄は手書きではなくて出版社のスタンプが捺されていた。 「本か?」 それにしては軽い気もする。ともあれ、部屋に戻ったジンは丁寧な仕草で包みをテーブルに置き、夕食の準備を始めた。 せっかく早い帰宅となったのだ。夕食に手間をかけようと思い、途中でスーパーに寄った。買ったのは鮭で、ポーチドサーモンにするか、それとも前菜のグラブラックスに挑戦しようかと考えていた。ポーチドサーモンはスウェーデンでは夏の料理だ。特に夏至祭りで出されるメニューでもある。季節に合わせるか…いや、当日いきなり作って成功するとは限らない。今日から練習した方がいい、と鍋に湯を沸かしハーブと、ワインを少し入れた。 玄関の開く音。 「ただいま」 いつもの小さな声。 「おかえり」 ジンは振り返り、ユウヤに向かって片手を挙げる。ユウヤもケピ帽を持ち上げてそれに応え、釘に帽子をかけた。 「そうだ、ユウヤ宛てに小包が」 リビングを指さすと、届いたの、と独り言のような呟き。 「君が自分の買い物をするのは珍しいな」 「知りたいことがあって…」 「本か?」 「教材」 趣味を持つのだろうか。 ――気づかなかった。 これだけ一緒の時間を過ごしているのに、と思いつつジンは口を噤む。ユウヤは小包の封を切らず元通りテーブルの上に置くと台所にやってきた。 「見ていていいぞ」 ううん、とユウヤは首を振る。 「後で」 ポーチドサーモンは茹ですぎでべちゃべちゃになってしまい、ジンは自分で作ったものの顔をしかめてそれを食べた。ユウヤは相変わらず機械的な咀嚼と嚥下を繰り返す。 快楽情報に欠けた生活。 ――ユウヤが趣味を持つようになったのなら、喜ぶべきことだ。 仕事をしている時間、郵便局の職員と過ごしている時間。ジンの知らない時間にもユウヤの生活はあるのだ。 自分も同じ趣味を持つのは悪くないかもしれない、とポジティブな思考転換をし、ジンは尋ねる。 「何の教材だ?」 「性教育」 気楽に尋ねたままの笑顔が硬直し、一時停止のように空気が凍りついた。少なくともジンの周りだけは。ユウヤは咀嚼していたサーモンを飲み下す。 「何も知らないせいでジンを困らせたから、勉強しようと思って」 映像ディスクを取り寄せたんだ、と白い指先が円を描いた。 確かにこの部屋はインターネットに繋がっていない。そんな知識を得ようと思えば、もう数十年前からネットは当然の手段だったが、ものがものだけに公共の場で接続することはユウヤにもできなかったのだ。 ここでも自分を思ってくれての行動にジンは嬉しさと羞恥と罪悪感の綯い交ぜになった感情の上から無理矢理冷静を装って、真っ直ぐユウヤを見た。 「ユウヤ…僕は…」 「君が嫌ならこっそり観るよ」 それともジンが監督した方がいい?と首を傾げられ、ジンは頭を抱えそうになるところを、しかしユウヤから目を逸らさず誤魔化し笑いはせず考えた末に、分かった、と言った。 「一緒に観よう」 椅子を片隅に寄せ、中古で買ったテレビの前、敷いたラグの上に二人は座った。ユウヤが小包を開く。紙のパリパリいう音を聞きながら緊張感が増すのをジンは感じる。もう何年も前、ユウヤが初めて目の前でサイコスキャニングモードを発動させるのに立ち会った時以上の緊張だった。 パッケージは教室風景の写真で、タイトルは『ラッセ先生の特別授業』。 嫌な予感がした。 ユウヤはデッキにディスクを入れ、部屋の電気を消すとリモコンの再生ボタンを押す。 予感は案の定的中していた。学校の教室のように見せたセットで唐突に始まる濡れ場。ユウヤは膝を抱え、じっと見ている。ジンは何も言えない。ユウヤはこれが本当に教材だと思っているのかもしれない。そして教材と呼ぶには偏った資料かもしれないが、最終的にはこういう知識のことで…。勿論、男女の性差や身体的、心理的それについて解説してくれるビデオがよかったのだが。 特別授業の内容は、そういったものから離れていたジンにも直截的で刺激的だった。予想はできたことだったが、やはり身体は反応する。 ――保つだろうか……。 遠くなる視線をテレビ画面から逸らすも、耳まで塞ぐことはできない。 ――まずい…。 しかし、ことはジンがその場から立ち上がるより早く起きた。 ユウヤの身体が近づいた。ふわりと体温がそばに寄る。ジンは画面から逸らしていた視線をユウヤに向けた。ユウヤもこちらを見ていた。テレビの光に照らされた白い顔。 手が、伸びる。 冷たい手がジンのズボンの上から触れた。そして朝方のそれのように、軽く握った。 「…硬い」 ジンは唾を飲み込み、ゆっくりと言った。 「こう、なるんだ」 「ジンは興奮してる?」 黙って頷くと、ユウヤが少し俯き加減に視線を落とした。 「僕は…よく分からない」 行為が進み、モザイクは入っているものの一体何がどういう状態で何をし、されているのかは分かる。ユウヤが手に少し力を入れた。 「……っ」 ジンは声を漏らしそうになるのを堪え、深い呼吸をする。深呼吸の音はユウヤにも聞こえていたが、なりふり構うことも誤魔化すこともできる状態ではない。 「ユウヤ…」 ズボンの上から握る手をそっと離させる。わずかに抵抗するような動きを見せた手を握りかえし、ジンはユウヤに顔を近づけた。 「ごめん…」 「何が…?」 ラグの上のリモコンに手を伸ばし、掌でとにかくボタンを押す。絶え間なく聞こえていた嬌声が消え、部屋が暗くなる。テレビの画面だけが消えた。デッキの電源は落ちていなくて、再生時間の数字が青白く光りながらカウントを増やす。 目の慣れない急な闇の中で、ジンはユウヤの耳に唇を近づけた。ユウヤ、と囁く声が、本当に自分の声かと思うほど切羽詰まって熱かった。 「誤解をされたくない。確かに興奮したが…だから誰でもいいという訳じゃない。君が触ったのも関係ないとは…言えないが…でも僕は、君だから…」 その先の言葉が出なかった。耐えきれずジンはユウヤの肩に自分の頬を押しつけた。 「君だからこそ、僕は…」 「ジン」 耳元で呼ばれ、ぞくりと背筋に震えが走った。痺れがぞわぞわと全身に広がる。 「大丈夫だよ」 ユウヤが囁く。 「ジンはいつだって正しい」 一方的に掴んでいた手が解け、互いの指が絡み合う。 「ユウヤ」 夜闇の中でユウヤを見つめ、ジンは言った。 「キスを、させてほしい」 ユウヤが静かに頷いた。 瞼を閉じてと言うと、見ていたい、と言う。闇の中でも自分の顔が真っ赤なのが見えるだろうか。ジンは震えながら唇を近づけた。 初めて触れ合った唇は柔らかくユウヤの体温を教えた。何度も繰り返すと、ユウヤがリクエストに応えるように優しく目を閉じた。 いつもベッドの中でかぐ互いの肌の匂いはこんなものだっただろうか。今は強烈な香水のように鼻からダイレクトに脳を刺激する。唇を柔らかく噛むと、呼吸も肌も血の通っていると実感させるその唇も食べてしまえるような気がして眩暈がした。 ジンの一つ一つ行為をユウヤはリアルタイムで学習していた。ジンが呼吸の為にわずかに唇を離すと、その下唇に淡く噛みつかれた。スイッチの入る音が聞こえたかと思った。舌が触れ合ってからは無我夢中で、片方の手で背中を支えているもののユウヤの身体はどんどん後ろに傾く。 しかし完全に押し倒すことはなかった。ユウヤの膝の間に割り込んだジンの脚は、それに気づいた。 それは静けさだった。波のない湖面のような完全で完璧な静けさだった。その刺激が――否、刺激のないのが――脳に届いた瞬間、冷静さが活性化しジンの目は開いた。 夜に目が慣れ始めていた。ユウヤはじっと自分を見上げていた。ジンを信じ切っている顔で、何の不安の影も見えない。しかし。 ジンはゆっくりと退き、傾いたユウヤの身体を抱き起こした。 「…すまない」 組んでいた手を解き、ジンは立ち上がった。 「シャワーを浴びてくる」 ジンは冷たいシャワーを浴びた。冷たい水を浴び続けた。それなのに萎えしぼむことのない欲情。濡れて冷え切った手で触れ、ジンは目を瞑る。ユウヤが全く反応を見せなかったそこを、掴む。 考えるのはユウヤのことだった。 ユウヤのことだけだった。 浴室から出るとかすかに嬌声が聞こえた。テレビのボリュームを下げて、ユウヤが一人続きを観ていた。手が脚の間を掴んでいる。ユウヤ、と呼ぶと表情のない人形のような顔が振り向き、軽く目を伏せた。 「…僕の身体は違うみたいだ」 ユウヤは股間から手を離し、ビデオを停止させた。 取り出したディスクをパッケージに戻し、真っ青な画面を映すテレビを見る。唇が小さく動いて、特別授業も役に立たなかった、と言った。 ジンは後ろからユウヤを抱きしめた。試していたのか、とは今更尋ねる間でもなかった。 「ユウヤは」 耳元に強く囁く。 「何も間違っていない」 ユウヤをベッドに寝かしつけ自分は床で寝ようとすると、ユウヤは嫌だと言った。 「嫌だよ」 二人で床の上に寝た。 |