20代編 2







 花の咲く夢を見た。
 春が近く暖かくなっていた。夢の中でユウヤが海のような色の花瓶を持ち、窓辺に立っていた。隣の窓辺にはプランターに花が咲き乱れていて――ジンは花の名前が分からない――ユウヤはそれを白い指先で摘み取る。選ばれたのは白い花ばかりで、ユウヤは加減を知らないのか溢れるほどに花を花瓶にいけた。いけた先から花は次々と生まれ、溢れ出す。いつの間にか床一面が花に満たされている。薄暗い床の上、花は灰色に染まる。
 夢の中のユウヤは窓辺に頬杖をついて独り言を言う。
 ――ジンは喜んでくれるかな。
 そこで目が覚めた。
 瞼は開いていて、網膜は早い朝の天井を映していたがジンにそれは見えていなかった。ただ漠然と、朝だと思った。もう少し夢の続きを見ていたかった。本当は夢と地続きの世界なのではないかと、ちょっと甘えた思いが胸をよぎった。
 ――ユウヤ。
 寝息が聞こえる。時間には少し早い。ユウヤは隣で眠っている。毛布の中は二人分の体温で暖かく、ジンは心地よさの中に自分の身体の異変を感じた。ごく健全な生理現象。最初の頃は慌てて飛び起きトイレに駆け込んだりしたものだが、ユウヤと一緒に眠るのは毎日のことなのだ。もう慌てる必要もない。
 ――心地いいから、つい…。
 溜まっている訳でもないはずだが、と思いつつ、ジンは起きようと身じろぎし、もう一つの異変に気付いた。
 確かに心地よかったのだ。毛布の中で身体が溶けているのかと感じるほど。二人の体温はいつも溶け合い、目覚める時まで隔てがない。だから。
 ジンは目を見開き息を詰めてゆっくりと隣を見た。ユウヤは眠っている。寝息で分かる。瞼は大きな黒い瞳を優しく覆っている。眠っているのだ。しかし生温かい指がジンを捉えていた。今のジンにとって一番肝心な場所を、ユウヤの手は軽く握っていた。
 ユウヤ、と呼ぼうとして口を噤む。今起きられてはまずい。悟られぬよう静かに腰を引くと、ユウヤの手は引き留めもせずぱたりとシーツの間に落ちた。
 しかしジンはまだ息を詰めていた。ベッドから下り、トイレのドアを閉め鍵をかけるまで一瞬たりとも気を抜かなかった。これだけ緊張していても萎えないのだな、と冷静な頭の片隅で思った。
 ズボンを下ろし便座に腰かけると盛大に安堵の息が漏れる。とにかく、まあ、どうにかするしかない。これまでもそうしてきた。しかしついさっきまでユウヤの手が触れていたことがジンを動揺させた。冷たいシャワーでも浴びようか…。
 ――管理人に怒られるか。
 上の階の住人は時間を考えずシャワーを使っては、よく怒られている。ジンは別に気にしなかったしユウヤも、雨の音みたいだ、と言って別に不快な様子は見せなかったが。
 自分の手で触れてみる。駄目だ、と思った。多分冷たいシャワー程度では、この熱は収まらないだろう。
 目をつむって手っ取り早く処理を済ませトイレを流すと、いつも以上の虚しさが胸に風穴を開ける。
 ――ユウヤ…。
 そういえばユウヤは一度も朝からそうなったことがない。
 ――知らない、ということは…。
 常識的に言えばあり得ないと断言してもいいはずだが、あり得る…、と些か顔を曇らせながら頷いてしまうのはユウヤがその半生においてほとんどと言っていいほど外界と接触したことがなかったことによる。ジンが帝王学を学んだのとは別の意味で、ユウヤは学校に行かなかったし特殊な教育しかされていない。
 ――教え、育てる…?
 否、実験を受け、訓練されたのだ。
 冷たい身体。LBXのパーツとしての肉体。一体誰がそれをいたわり、人間らしさを与えようとしただろう。
 水の流れる音を聞きながら考えた。
 トイレから出るとユウヤが起きていて、紅茶を淹れていた。こちらを振り向く。乱れた黒髪。覗く白い肌。表情は人形のようで、黒い瞳はジンを映している。
 いつもの朝の挨拶を、ユウヤは待っていた。
「お……」
 声が掠れる。何故だか頬が赤くなる。分かっている。全身が熱い。自分は赤面している。
「おはよう」
 掠れた声でジンは言った。
「…おはよう」
 いつものようにユウヤは返した。
 サニーサイドアップを作るための卵は二個とも黄身を割ってしまった。それでもジンは妥協しない。努めていつもどおりの朝であろうとした。
 ――ユウヤはいつもどおりだ。
 手が触れていたのは偶然かもしれない。広くないベッドだし、いつもくっついて寝ているから…。そう言い訳するのも逃げであると自分自身でもよく分かっていた。生温い手が確かにジンを捉えていた。
 今まで性的な接触などしたことがない。眠る前の右肩へのキスだって、ジンは秘密にしているのだ。
 ――そもそも僕は…。
「ジン」
「えっ…?」
 ユウヤが朝食を食べかけのまま、呼んだ。
「どうしたの」
「どう…」
「厳しい顔をしている」
 ジンは思わず自分の顔に触った。ジンもそこまで表情豊かな方ではないが、そんな仏頂面をしていただろうか。
「…いや、心配いらない」
「体調が悪い?」
 話題が肉体のことに及ぶと一瞬、今朝の熱が蘇る。
「悪くない」
 すっきりしている、という表現はし難かった。
「…そんな風に見えるか?」
「熱でもあるみたいだ」
 実に的確な指摘。
「暖かくなったからな」
「今日から、毛布を一枚減らす?」
「そうだな…」
 ユウヤは、とジンは慎重に尋ねた。
「昨夜はどうだった」
「暖かかったよ」
 朝食を終えてユウヤの髪を梳き、油の染みついた作業着を着るとジンの肌にもようやく日常が蘇ってきた。いつもどおり、ユウヤの運転する自転車の荷台に座り出勤する。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 いつも通りだ。
「いつも通りじゃないか」
 ジンは両手で自分の頬を叩いた。
 イェータ川を吹く風が柔らかくジンの身体にまとわりついた。春の訪れは街を渡る風に染みていた。

 イースターを過ぎてもしばらくは思い出したように冷たい風が吹いて冬の戻ってきたような天気の日だったが、ここ一週間は晴れた日が続いている。今日は日曜日だった。二人とも仕事が休みなので、なかなか片付けられなかった毛布を一枚、干してからしまおう決めていた。そんな朝だった。
 ジンはトイレに腰掛け、項垂れている。例の件、だった。
 あれからもたびたび同じような朝が来た。目が覚めると、硬くなったそこをユウヤの手が握っている。偶然でもなく、またユウヤが触ったからそうなっているのではない。ジンがそういう状態になると、ユウヤな握ってくるらしかった。
 ――恐ろしいことに…、
 ジンは水を流した便座に腰かけたまま俯いた。
 ――僕はこの状況に慣れてしまった。
 そうなのだ。いつしかジンも慌てて起きることをやめ、ユウヤの好きなようにさせていた。ユウヤは気のすむまでそれを握っていて、目覚める直前にはそれを離した。それからジンは起き出し、トイレに向かう。
 ――萎えることはないのか…。
 諦めの息が口から漏れる。
 ユウヤの白い手。いつもは冷たい手が、ベッドの中では生温かい熱を帯びている。優しい手だ、とジンは思う。その感想に性的な思いが含有されているか否かは自身にも区別がつき難かったが、大事な人の、好きな手には違いなかった。いつも機械を相手にする自分の手と違い、ユウヤの手は柔らかく、爪も綺麗だ。なにより敵意のない、その触れ方。ティーカップを持つ手、ジンが肩に触れた手に重ねる掌の感情に乏しい、その分無垢な接触が。
 ――僕の……
 よりにもよってそこに触るとは。
 ジンは自分の掌を見下ろした。さっきガサガサするトイレットペーパーで拭いたばかりの掌。
 劣情、と思った。これまでは生理現象だから仕方ないと機械的に処理していたが、ユウヤの手が触れるようになってからはこの行為がひどく後ろめたい。健全な男ならば恋人の一人も作るべきなのだろうか。
 ――健全な、か…。
 十分満ち足りた生活だ。労働し、生活の糧を得ること。大事な人と一緒に朝目覚め、夜は共に眠る。何一つ不健全ではない、とジンは考えている。やせ我慢ではない。実感として、ユウヤと一緒に毎日を暮らすことができれば恋人など必要ない。ユウヤが隣にいる生活こそ掛け替えのないものなのだ。
 それがまさかこんな形でこじれてこようとは思わなかった。
 ――いや、まだこじれてはいない。これは僕だけの問題だ。
 とは言え生理現象を止めることなどできず、今朝の溜息に繋がる訳だが。
 日が昇ってからは、かねてからの約束通り毛布を干した。洗濯したムーミンのプリントのシーツを、ユウヤは手を広げて抱きしめた。
 シーツを滑る白い手。
 一瞬、言葉にならない不埒な思いが頭の隅を掠め、ジンは窓辺に寄りかかって俯いた。赦されたい、いや、罰せられたい気分だ。
「ごめん…」
 小さく呟くと、ユウヤが不思議そうにシーツから顔を覗かせた。
 自分の性的な欲求に引き摺られすぎだ、と昼食で腹を満たし脳に糖分を供給した状態でジンは改めて考えた。ユウヤは窓辺に座り、シーツがはためくのを飽きもせず眺めている。
「ユウヤ」
 いつもの声で呼ぶことができた。ユウヤが振り向く。
「図書館に行ってくる」
 ついていく、とは言わずユウヤは素直に頷いた。
 図書館までは距離があったが、まだ午後の時間は十分ある。ジンは歩くことにした。いまだ、自転車には乗れない。
 ユウヤの手に性的な意味合いが含まれないとしたら、それは単純な好奇心ではないか。ジンはユウヤがそういう状態になったのを一度も見たことがない。
 ――本当に知らないのかもしれない。
 性機能が不全故に、ただ目の前のものに興味を持ったのだとしたら?
 もしかしたら心配すべきはユウヤの身体そのものかもしれなかった。海道ジンを、LBXメーカーの社長を辞めた時からほとんど足を向けなかった医学書のコーナーへジンは向かった。性的不能に関する本は思いの外多く出ていて、この世にはどれだけそれで困っている男がいるのだろうと考える。
 機能不全の原因も治療法も様々だ。ユウヤの場合、どこに原因を求めたものか、それさえ判断しかねた。心因性というのは大いにある話だ。それに器質性の障害。ユウヤは幼い頃から薬物の投与を受けている。その影響だって考え得る。
 ――餅は餅屋ということか。
 素人がどれだけ考えても、実際に医者に診せるのが一番だろう。しかしどう言って連れて行ったものか。いや、そもそも本人がこれを改善したいと考え、治療を望むだろうか。
 ジンは閉じた本を書架に戻し、肩を落として図書館を出た。帰り道に花屋があり、バケツに白い花が溢れていた。気まぐれでそれを買った。
 帰宅するとユウヤが出迎える。日が傾いてしまっていたので、洗濯物はもう取り込まれていた。
「すまない、遅くなって」
「…花」
「ああ、綺麗だったから」
「きれい……」
 ここで部屋には花瓶がないことに気づいた。仕方なく、コップに差した。ジンが夕食を作る間、ユウヤはキッチンテーブルの上に伏し、飾られた花を見上げていた。
「…色のついた花がよかったかな」
 声を掛けると、ユウヤは小さく首を振った。
「ジンが選んだ花」
「たまたま目についただけで…」
 ちらりと振り向くと、白い指が花弁を撫でていた。
 その夜、また夢を見た。白い花に満たされた浴槽でユウヤが眠っている。まるで溺れてしまいそうに見えたので、ジンはそれを抱き起こそうとする。すると、ふ、とユウヤの瞼が開いて、白い指が伸びてくる。ユウヤの白い指はジンの頬を撫でる。生温い体温が触れた頬から全身に伝播し、ジンはたまらずそっとその指を噛む。
 急に目が覚めた。心臓がどきどきいっている。ユウヤの手が掴んでいるのを感じた。まずい、と思った。今朝は気の済むまで握らせている訳にはいかなかった。ジンは息を詰めるとベッドを抜け出し、冷静さを保とうと努力しながらトイレに入った。
 鍵を閉めた格好のままジンは俯いていた。すぐに触る気にはなれなかった。自分の分身は今にも触ってくれと刺激を要求していたが。
 ――…駄目だ……
 今、目を瞑ればユウヤの指を思い出す。白い指。優しい手。生温い体温。
 ――ユウヤは、僕の……
 その時、硬質なノックの音が響いた。